岡崎城 (おかざきじょう)
最寄地 神奈川県伊勢原市岡崎5410 2016.1.16
岡崎城 (おかざきじょう)
最寄地 神奈川県伊勢原市岡崎5410 2016.1.16
無量寺
説明板・城跡碑
西側空堀
西側の郭
北側の空堀
岡崎義実の墓
岡崎城跡(地図)
【遺構★★★☆☆】
【案内・感想】 高台にある「無量寺」(表記番地)の敷地となっている。参道の横に、「岡崎城跡」の石碑、説明板が建てられている[マップコード15 457 027*18] 。墓地の西側に空堀を隔てて、郭がある。その北に空堀(地図)がある。
西に行った住宅の北に「岡崎四郎義實公の墓」(地図)がある。
南方約750m前期の城跡とされる「岡崎神社」(平塚市岡崎3650)がある。高台に建っているが、遺構は無い。
昭和四十四年(1969年)2月27日、伊勢原市の史跡に指定された。
【歴史】 岡崎城は前期(岡崎神社を中心とした範囲)と後期(無量寺を中心とした範囲)の二つの時期にわたり、場所を変えて築城された。
前期(平安時代末~鎌倉時代)の岡崎城は、源頼朝の功臣、岡崎義実により築かれた。三浦の衣笠城主・三浦庄司義継の4男義実がこの地に入り、地名にちなんで岡崎四郎義実を名乗った。
義実は頼朝の挙兵に応じて石橋山の合戦に参じた。その際、嫡子真田与一義忠と俣野五郎との組討ちは、後に浮世絵の題材として取り上げられた。義実はその後頼朝に付きしたがって行動し、岡崎氏は三浦の4棟梁(三浦・和田・佐原・岡崎)の一つに数えられる重臣となった。
後期(室町時代末~戦国時代)の岡崎城は、明応三年(1494年)に三浦道寸(義同;よしあつ)が義父三浦時高を滅ぼし、子息義意(よしおき)を三浦の新井城へ置き、自らは城に手を加え居城とした。
そのころ、伊勢宗瑞(北条早雲)は関東進出を図って、小田原城を奪い相模平定を狙ったが、堅固な岡崎城に阻まれ、17年間にわたり睨み合いが続いた。
岡崎城の周囲には沼地がめぐり南は断崖で、『小田原記』に「岡崎の城と申すは、昔頼朝の御時、三浦大介の弟、岡崎悪四郎義実が住みし城とぞきこえし、三浦の一門数年住せし処、要害きびしく支度せり」と称される要害であった。
しかし、永正九年(1512年)八月、伊勢宗瑞の猛攻により、遂に落城した。道寸(どうすん)は弟の三浦道香を頼って三浦の住吉城に逃れ、転戦の後、新井城に立て籠もった。
攻防を繰り返す事三年、永正十三年(1516年)七月十一日、道寸(義同よしあつ)は一族と共に滅んだ。道寸が同じ新井城に義父時高を討ってから二十余年後、三浦一族の壮絶な最後であった。
その後、岡崎城は北条氏の持ち城となったと思われるが、廃城時期は明らかではない。『伊勢原市教育委員会説明板』より。