沼平館 (ぬまのたいらたて) (沼の平城)
最寄地 山形県西村山郡西川町岩根沢454-15 2015.6.11
沼平館 (ぬまのたいらたて) (沼の平城)
最寄地 山形県西村山郡西川町岩根沢454-15 2015.6.11
登城ルート
入口・案内標識
虎口
二重空堀
主郭・土塁
主郭・城跡碑
北側堀切
沼平館跡(地図)
【遺構★★★☆☆ 比高70m】
【案内・感想】 寒河江川の支流、網取川の右岸の南北に伸びた丘陵の南端にある。
丸山薫記念館(表記番地)の南100mにドコモ鉄塔があり、案内標識のあるT字路を東に砂利道をKDDI鉄塔横を通って約500m行くと、案内標識、説明板が建てられている[マップコード837 748 270*53](地図)。その先に駐車スペースがある。
さらに100mほど東に行き、右に折れて林道を反時計回りに1㎞ほど登ると、比高70mの尾根に「沼之平楯跡」の標識が立木に張り付けてあり、登ると2重空堀が良く残っている。
主郭南東側に虎口があり土塁が残り、曲輪の北側に「沼之平城跡」の石碑が建てられている。北側に細長い北郭がありその北に、3本の堀切が残っている。規模は東西50m、南北130mである。
【歴史】 天正年間(1573~93年)東海林隼人佐昌種が居城したとされている。隼人佐は谷地城主白鳥十郎長久に与力した国人領主とされ、内陸と庄内を結ぶ間道の重要な拠点として築かれたと推測される。
天正十二年(1584年)最上義光によって白鳥十郎が殺害された折、最上に嫁いだ息女日吉姫が難を逃れて幸生を経て、隼人を頼り沼平館に身を寄せた。
月山越えの最上軍に襲撃され、隼人佐は最上勢に降伏し、その後東海林一族は最上軍として慶長五年(1600年)の慶長出羽合戦に参戦し、庄内で奮戦したと戦記物「奥羽軍談」に記されている。『西川町教育委員会説明板』より。