立川氏館 (たちかわしやかた)
所在地 東京都立川市柴崎町4-20―46 2015.1.16 2017.2.17
立川氏館 (たちかわしやかた)
所在地 東京都立川市柴崎町4-20―46 2015.1.16 2017.2.17
普濟寺参道
普濟寺山門
土塁(南より)
説明板
立川氏館跡(地図)
【遺構★★☆☆☆】
【案内・感想】 多摩川の支流残堀川左岸段丘にある。都道29号線(奥多摩街道)「諏訪神社前」交差点より細い道を南に行った普濟寺(ふさいじ)(表記番地)境内となっている[マップコード5 063 504*05] 。
本堂の南に長さ36mほどの土塁(地図)が残り、説明板が建てられている。
【歴史】 玄武山普濟寺は、開山は物外可什禅師、開基は立川宮内少輔宗恒により文和二年(1353年)に創立された。
地誌類の記述や山門脇に残る土塁、普濟寺北側の通称首塚から発見された板碑八十余基などから、立川宮内少輔の居館跡とされる。
立川(河)氏は武蔵七党系図によると、西党に属し日奉(ひまつり)氏の支族で、鎌倉幕府に仕え、戦国時代には後北条氏に仕えた。
天正十八年(1590年)豊臣秀吉の小田原征伐で八王子城落城によって、立川氏は浪人となった。後に水戸藩士として水戸に移住した。
【縁起】 この鎌倉時代の居館に南北朝時代、屋敷内に寺(普濟寺の前身)を建立し、戦国時代末に立川氏が滅亡した後に現在の普濟寺となった。
【発掘調査】 平成八年(1996年)以降の発掘調査等により、十五世紀前半から十六世紀前半にかけての建物跡・井戸跡・門跡・柵列跡や東側土塁脇から区画を示すⅤ字溝などの遺構が発見された。居館は切り立つ段丘崖と直行する東西二本の土塁や地割などから寺域を囲む長方形区画の居館が想定されている。『東京都教育委員会説明板』より。