小田原城 (おだわらじょう) (小峰城・小早川城) (国の史跡・日本100名城23)(日本さくら名所100選)
所在地 神奈川県小田原市城内6‐1 2012.10.23 2016.1.23
小田原城 (おだわらじょう) (小峰城・小早川城) (国の史跡・日本100名城23)(日本さくら名所100選)
所在地 神奈川県小田原市城内6‐1 2012.10.23 2016.1.23
二の丸隅櫓・濠
馬出門
常盤木門東
常盤木門
銅門
復興天守
八幡山古郭東曲輪
小峯御鐘ノ台堀切
小田原城 常盤木門(地図)
【遺構★★★★★】
【案内・感想】 「小田原市民会館」(小田原市本町1-5)西に有料駐車場がある[マップコード57 289 608*47] 。その前の巾20m位の堀に映える二の丸隅櫓(地図)(昭和十年二分の一で再建)が美しい。朱塗りの大手橋を渡ると「小田原城址公園」として整備されている。
再建された常盤木門(昭和四十六年)を抜け南東の堀近く銅門(地図)(あかがねもん・平成九年復元)、築地塀、馬出し門(:平成二十一年復元)が復元されている。常盤木門より西へ行くと小田原城天守(昭和三十五年RC造復興天守)が建てられている。内部は有料(一般410円、小中学生150円)で北条氏関連の資料館になっている。
県立小田原高校を中心として八幡山古郭があり戦国時代の主郭とされ、八幡山古郭東曲輪(地図)が残っている。その西の防御施設として「小峯御鐘ノ台大堀切」が3条(東・中・西)造られ、そのうち東堀(地図)が良好に保存されている。
昭和十三年(1938年)8月8日、国の史跡に指定された。平成十八年(2006年)4月6日、日本100名城(23番)に選定された。
【歴史】 平安時代末期、相模国の豪族土肥氏一族である小早川遠平の居城であった。
応永二十三年(1416年)上杉禅秀の乱で禅秀方であった土肥氏が失脚し、代わって大森氏がこれを奪って相模国・伊豆国に勢力を広げた。
明応四年(1495年)伊豆国を支配していた伊勢平氏流の伊勢盛時(伊勢宗瑞・北条早雲)が大森藤頼より小田原城を奪い、城を拡張した。
その子の伊勢氏綱(北条氏綱)が永正十五年(1518年)頃居城とし、以降氏康・氏政・氏直に至る後北条氏五代の居城となった。
北条氏時代は、三の丸(現小田原城址公園)を居館部とし、JR東海道本線を挟んだ八幡山が主郭(詰城)であり、城下を9kmに亘って堀で囲む総構であった。
永禄四年(1561年)北関東に於いて後北条氏と敵対する上杉謙信が越後から13万余の大郡で小田原城を攻めたが、持ちこたえ、これを防いだ。
永禄十一年(1568年)武田信玄が駿河今川領へ侵攻(駿河侵攻)を開始すると、後北条氏は甲相同盟を破棄し、越後上杉氏と越相同盟を結び対抗した。信玄はこれに対し北関東の国衆と同盟し、翌永禄十二年(1569年)後北条領へ入り小田原城を恣意的に取り囲み撤退し、信玄を追尾した後北条勢を三増峠の戦いで撃退した。
天正十八年(1590年)豊臣秀吉は天下統一の総仕上げとして隠居北条氏政と子氏直が指揮する北条勢と開戦、当時北条氏と対抗していた佐竹義重・宇都宮国綱らと共に数十万の大軍で小田原城を総攻撃した。
関東の北条氏の支城も別動隊で攻め落し、持久戦に持ち込もうとした北条氏を、一夜城の心理的効果もあり無血開城させた。当主氏政・氏照は切腹、氏直は高野山へ送られた。
その後秀吉は国綱と共に下野国宇都宮に陣を移し参集した関東・東北諸大名の処遇を決定し(宇都宮仕置)、秀吉の天下統一は完成した。
この後北条氏の領土は徳川家康に与えられ、江戸城を居城とした家康は腹心大久保忠世(ただよ)を小田原城に置き小田原藩を統治した。城は三の丸(現小田原城址公園)以内に規模が縮小された。
一方、北条氏は一族の北条氏盛が河内国狭山1万石を治める外様大名として明治に至っている。
慶長十九年(1614年)2代大久保忠隣(ただちか)が、改易された。寛永九年(1632年)稲葉正勝が城主となり、その子正則の時代に天守閣に櫓や城門を各所に設け、石垣と水堀による近世城郭となった。
貞享三年(1686年)大久保忠朝が、佐倉藩より国替えされ、再び城主となった。明治維新まで大久保氏が居城した。
元禄十六年(1703年)の元禄地震で天守はじめすべての建物が焼失した。宝永三年(1706年)天守が再建された。
明治三~五年にかけて城内の建造物はほとんど破却された。