頃藤城 (ころふじじょう) (小川城)
所在地 茨城県久慈郡大子町頃藤6503 2016.3.5
頃藤城 (ころふじじょう) (小川城)
所在地 茨城県久慈郡大子町頃藤6503 2016.3.5
登城ルート
下城・水郡線
空堀・二郭
空堀・主郭土橋
主郭
主郭の祠・石碑
下城
頃藤城 主郭跡(地図)
【遺構★★☆☆☆】
【感想】 久慈川右岸の大きく蛇行する半島状台地に位置し、東西に郭が並んでおり、主郭2郭間の空堀がよく残っている。
東西約80m南北約50m主郭の東半分は藪で覆われているが、西半分はよく手入れされ、その北東隅に「山田左近太夫通定居城趾」と刻まれた石碑と祠が建てられている。
【案内】 国道118号線のT字路より西へ170m行くと右手に主郭入口がある[マップコード379 451 345*36]。
虎口の北と道路の反対側(茶畑)に空堀が残っている。主郭の北側に城址碑があり、主郭より東下段の下城に廃屋がある。下城は水郡線の切通しの東側まで延びるが、国道118号線を挟んで宅地となっている。
一方、主郭の西に宅地となった二郭があり、関戸神社(表記番地)付近まで広がる。廃屋も多く見受けられる。
【歴史】 『水府志料』には、「古墟、館坪といふに在。土人の伝説に、何れの頃にや山田右近大夫道定といふ者居といへり。其後、佐竹義胤四男小川大和守義継住せし由。佐竹羽州に移る後、城廃すといへり」と記されて入る。
また『新編常陸国誌』には、「久慈郡比藤村ニアリ、佐竹義胤第四男小川宗義〔宗義一ニ義継ニ作ル、大和守ト云〕此ニ邑シ奕世城主タリ。慶長七年、佐竹氏封ヲ秋田ニ遷ス、城廃セリ」と記されている。以上『大子町ホームページ』より。
築城は、建治年間(1275~78年)といわれ、領主で常陸守護・佐竹義胤の庶子・小川宗義が居城とし、家老の神長氏、清水氏が城代を務めた。小川城ともいう。
その後、上杉氏の子である佐竹義人の入嗣に佐竹氏有力庶家の山入氏が宗家に謀叛した山入の乱により、一時混乱し白河結城氏に同地一帯を奪われたものの、その後、佐竹氏が奪回し、小川氏が再び城主となった。
慶長五年(1600年)関ケ原の戦いで佐竹氏が付いた西軍が敗れたのち、慶長七年(1602年)佐竹氏が秋田転封となると小川氏も随従し、頃藤城は廃城となった。以上『ウィキぺディア』頃藤城より。