高崎城 (たかさきじょう) (和田城)
最寄地 群馬県高崎市高松町28-2 2013.8.28
高崎城 (たかさきじょう) (和田城)
最寄地 群馬県高崎市高松町28-2 2013.8.28
東側の濠
石垣・塀
乾櫓・東門
乾櫓
東門
高崎城 乾櫓(地図)
【遺構★★★☆☆】
【案内・感想】 県道29号線と県道41号線の交差点の南東一帯が城跡で、多くの建物の敷地となっている。
「群馬音楽センター」 (表記番地)の北東に高崎城乾(いぬい)櫓があり、東側に南北700mにわたって濠があり、南に「城址公園」がある。
本丸はNTT別館付近で濠と土塁をめぐらした三層櫓であった。
【歴史】 平安時代末期に、この地の豪族和田義信が築城したと言われる。
室町時代になり、和田氏は関東管領の上杉氏に帰属した。永禄四年(1561年)当時の城主和田業繁は帰属していた上杉謙信に反旗を翻し、武田信玄につき、和田城は上杉勢の度々の侵攻によく耐えた。その子、和田信繁は、北条氏に属した。
天正十八年(1590年)豊臣秀吉の小田原征伐の際には小田原城に籠城した。和田城の留守を預かる信繁の子・兼業は、前田利家・上杉景勝等の連合軍に大軍をもって包囲され、四月十九日(新暦5月22日)に落城し、廃城となった。
家康の関東入部とともに箕輪城主となっていた井伊直政は、慶長二年(1597年)家康の命により、和田故城の城地に近世城郭を築き、翌年、直政は箕輪城から築城中の高崎城に移った。
慶長五年(1600年)の関ヶ原の戦いの後、直政は近江国佐和山城に移封となった。その後は、諏訪氏、酒井氏、戸田氏、松平(藤井)氏と続き、元和五年(1619年)安藤重信が入部して以後、安藤氏三代により城、城下の整備が行われた。
寛永十年(1633年)には、実兄である三代将軍徳川家光の命により、この城に幽閉されていた徳川忠長が大信寺で自刃した(享年28)。
その後、元禄八年(1695年)大河内松平輝貞が城主となり、間部氏、再び大河内松平輝貞が復帰し以後大河内松平氏十代が城主を務め、明治維新を迎えた。最後の藩主は十代輝聲(てるな)である。
明治六年(1873年)廃城令により存城となり、第三師官官内分営所が置かれた。以後建造物は移築もしくは破却され、跡地の大半は歩兵第十五連隊の駐屯地として使用された。