藤崎城 (ふじさきじょう)
所在地 青森県南津軽郡藤崎町藤崎四本松 2014.8.3
藤崎城 (ふじさきじょう)
所在地 青森県南津軽郡藤崎町藤崎四本松 2014.8.3
東ノ郭跡・八幡宮
安東氏顛末記碑・社
土塁・土塁跡の標柱
西ノ郭跡・稲荷神社
【遺構★★☆☆☆】
【案内・感想】 国道7号線と国道339号線の「舟場」交差点より西に50m行った国道339号線北に「八幡宮」がある[マップコード71 225 340*77]。神社裏の祠の横に「安東氏顛末記」の石碑があり、土塁が残り、「藤崎城土塁跡」の標柱が国道7号線に面して建てられている(地図)。
本丸・西ノ郭・東ノ郭(新館)から構成され、全体の規模は東西800m、南北360mほどであった。
東ノ郭跡は藤崎城東南、東西400m、南北360mの広さで東に津軽平野、西に岩木川・平川、南西には平川・浅瀬石川があり現在は八幡宮も残る。
本丸跡は東西約83m、南北約95mの長方形で、9m幅の堀を隔て、一ノ郭(東西五十二間、南北三十六間)・二ノ郭(南北三十間、南北三十六間)に分かれていたが、宅地となり消滅している。
西ノ郭は藤崎城北西、東西122m、南北約155m。南北に堀があり、南の堀は幅14m、長さ183m、北の堀は幅7m、長さ107mであったとされ、西は平川に接していた。西ノ郭跡は稲荷神社(地図)や法光寺(藤崎町藤崎村元3)が建っている。
【歴史】 康平五年(1063年)前九年の役で敗れた安倍貞任の次男高星丸が津軽へ逃れ、後に安倍貞義となった。その嫡男堯恒は寛治六年(1092年)、藤崎城を築城し、居城とした。以後、子孫は安東氏を名乗っている。
建久六年(1195年)には、当主安東堯季が蝦夷管領に任命された。寛喜元年(1229年)、堯恒嫡男安東貞季は、十三湊の十三氏を滅ぼした。
十三氏は奥州藤原氏の血を引く名門であり、その居城があり、日本海側の重要港として、「三津七湊」の一つに数えられた十三湊を手に入れた安東氏は一気に勢力を拡大した。
貞季の孫愛季は居城を福島城に移し、その弟高季が入り、居城とした。その後、一族の対立(安東氏の乱)を経て、建武の中興の際には。南朝側として、安東氏は勢力をさらに拡大した。
しかし、足利尊氏の叛逆が明らかになると、一族は南朝方の下国安東氏(福島城)、北朝方の上国安東氏(藤崎城)に分裂した。
結果、下国安東氏が勝利し、下国安藤教季が藤崎城主と平賀郡の一大拠点大光寺城主を兼ねた(上国安東氏は秋田郡に拠って戦国時代まで存続している)。
嘉吉三年(1443年)、南部氏が来襲し落城、下国安東(安藤)盛季は蝦夷に逃れ、南部氏の支配下となった。
そして安東一族の安藤義景が城主となった。その後、下国安東氏は幾度となく、奪還を試みるも失敗している。
その後、大浦為信の甥大浦六郎と大浦五郎が居たが天正十三年(1585年)事故死し、その後、廃城となった。