河俣城 (かわまたじょう) (城ノ倉城・川俣城)
所在地 福島県伊達郡川俣町飯坂諏訪山1 2018.11.2
河俣城 (かわまたじょう) (城ノ倉城・川俣城)
所在地 福島県伊達郡川俣町飯坂諏訪山1 2018.11.2
登城ルート(緑線は車道)
川俣高等学校
諏訪神社
諏訪神社北側の町道
詰への墓地北西の入口
崩落個所の踏み跡
西側の堀切
帯郭
主郭切岸
河俣城 詰跡(地図)
【遺構★★★☆☆ 比高40m】
【感想】 川俣町飯坂の標高315mの山頂に詰城、南麓に本城を配置している。
本城の遺構は少なく、諏訪神社北側の堀跡の道路が見られる程度である。詰城は堀切や階段状の郭が残されているが、鈍っていて余りはっきりしなかった。
【案内】 諏訪神社及び川俣高等学校(表記番地)一帯が河(川)俣城とされる。諏訪神社の背後に畜産農家に続く町道頭陀寺線があり、これが堀跡と云われる。
詰城へは「城之倉霊園」の駐車場が利用できる[マップコード446 015 331*65]。北西より山の北側を通る道(草が多い)があり、崩落した先の芒を分けていく。さらに登ると、道自体が崩落し、踏み跡(滑落に注意)を辿ると尾根の堀切に着く。
左(東)へ登ってゆくと、詰城であり、階段状の郭が見られる。
【歴史】 南北朝期に河俣城に拠った武将は明らかではないが、初め北朝に与し、延元元年(1336年)、相馬胤平によって攻略され南朝方の拠点となった。
貞和二年(1346年)、南朝方の結城氏、南部氏らが北朝方に転ずると、北朝方は南朝方の拠点に総攻撃をかけ、河俣城は同年七月二十五日、畠山国氏勢によって攻め落された。
時代は下り室町幕府と関東公方(関東府)との対立が激化する中で、応永二十年(1413年)、伊達持宗は伊達の国人勢力を集め、大仏城(現福島市)を中心に関東方に反旗を翻し鎮圧された。
当時の幕府方の陸奥国諸将の中に河俣氏、川俣飛弾入道の名がみえる。川俣を領有し河俣城に居した武将であろう。
持宗の乱後伊達氏は一時衰徴し、河俣城は岩瀬領主二階堂盛興によって攻略され草野氏が河俣城に居城した。
一方旧領地の回復を狙う伊達成宗は、桜田久綱に命じて河俣城を攻めさせ応仁二年(1468年)正月に攻略した。
翌文明元年正月十九日、再度草野氏に占拠されるが、久綱は奥山大蔵の加勢を得て二十八日に奪還した。
この戦功により久綱は川俣四郷の地を賜り伊達家宿老に列せられ、以来桜田氏は河俣城を居城とした。
天文十六年(1547年)、親茂が天文の乱中に戦死すると庶家の西桜田氏が居城した。
永禄十一年(1568年)、総領家の吉親(後の資親)は輪王寺に相馬氏と戦い、その戦功によって川俣の旧領地を復した。『川俣町ホームページ』より。
天正十二年(1584年)、桜田右兵衛尉資親が河股城を築き、移ったと伝えられる。