大庭城 (おおばじょう)
所在地 神奈川県藤沢市大庭5230 2014.2.4
大庭城 (おおばじょう)
所在地 神奈川県藤沢市大庭5230 2014.2.4
芝生広場
空堀
空堀と土塁
建物跡
城跡碑
大庭城 建物跡(地図
【遺構★★★☆☆】
【案内・感想】 「大庭城址公園」(表記番地)として整備されている。「市立大庭中学校」(神奈川県藤沢市大庭5416−6)南のT字路を南に約80m行くと公園西側に駐車場があり[マップコード15 414 098*14](地図)、管理事務所より東に登って行く。
四つの曲輪があったとされ、大芝生広場、一段高く休憩広場があり北隅に古代竪穴住居跡があり、その東に市民の「足型モニュメント」が造られている。その南に大規模な空堀や城跡看板がある。最南に空堀と土橋を通って、土塁で囲われた掘立柱建物跡の曲輪がある。南隅の虎口に城跡の石碑があり、南側登り道につながる。
管理事務所から西に、城跡と対照的に「湘南ライフタウン」のビルを望むことが出来る。
【歴史】 築城者は大庭景親の父にあたる景宗と言われている。「大庭の舘」とも呼ばれ、景親らの軍事拠点として重要な役割を果たしたと想定される。
治承四年(1180年) 石橋山の戦いで源頼朝に勝ったものの、平家方であり、一族のほとんどは筑前 (現在の福岡県)に渡ってしまうが景親は最後まで抵抗し、捕らえられ斬首された。
その後兄の大庭景義の子である景兼(小次郎景兼)が和田合戦に巻き込まれ大庭氏は滅亡したとされていたが、現在では、筑後(現在の福岡)に逃れたという説が有力とされている。
その後、扇谷上杉(おうぎがやつうえすぎ)氏の家臣であり江戸城を築城した太田道灌が鎌倉と糟屋館の中間地点のこの地に、最新の技術を取り入れ築城工事を行なったといわれる。
しかし、この後相模を侵攻してきた北条早雲によって大庭城は落城した。東相模を制圧した早雲は大庭城を大改修したが、玉縄城を築城したため、利用価値が低くなった。
天正十八年(1590年)、豊富秀吉の小田原征伐で後北条氏が滅ぶと、廃城となった。