土合館 (どあいだて)
最寄地 福島県福島市松川町字木曽内25 2014.4.16
土合館 (どあいだて)
最寄地 福島県福島市松川町字木曽内25 2014.4.16
由来碑
土合舘公園・由来碑
あやめ園・土塁
堀跡
【遺構★★☆☆☆】
【案内・感想】 表記番地南に駐車場が用意されている[マップコード129 851 113*33]。「土合舘公園」として整備され、あじさいの名所になっている(地図)。
「土合舘由来碑」「叶観世音像」広場や駒形三社神社が祀られ、低地に土塁、虎口の残る「あやめ園」がある。 八丁目城と街道を挟んで東方およそ800mに位置する土合山には支城が置かれ、土合館(どあいだて)とよばれた。
【歴史】 鎌倉時代佐藤秀行がこの地の領主となり、次いで相馬重胤、そして南北朝合一の頃伊達宗遠が領主となった。
天文十一年(1542年)伊達稙宗はその子晴宗と相争い、八丁目城に陣し七年間戦いが続いた。
清野備前守・遠江守父子は土合山に館を築き備えた。遠江守は伊達家に背き切腹させられ、堀越能登守が城主となったが、二本松氏8代当主畠山義国と内通したため、天正二年(1574年)、大森城主・伊達実元が八丁目城を奪い返し、再び伊達領となった。
翌天正十三年、伊達輝宗(政宗の父)が二本松の畠山義継に殺されるや、政宗は八丁目東西館を本拠に戦い、伊達軍の勝利となり畠山家は滅亡した。
実元の子成実が二本松城代に任命されると八丁目城は二本松城の支城となった。天正十八年(1590年)の豊臣秀吉の奥州仕置により、政宗が移封された後、八丁目東西両館は破却され廃城になった。