千石城 (せんごくじょう) (文覚館) (もんがくたて)
最寄地 宮城県大崎市松山千石松山140 2017.10.25 2018.4.20
千石城 (せんごくじょう) (文覚館) (もんがくたて)
最寄地 宮城県大崎市松山千石松山140 2017.10.25 2018.4.20
登城ルート(緑線は車道)
三の丸北東の空堀
三の丸
三の丸・櫓台
二の丸北の堀切
二の丸
本丸堀切と橋
本丸
千石城跡(地図)
【遺構★★★☆☆】
【感想】 大崎市松山千石の標高72.3mの山頂に三の丸があり、南尾根に二の丸、本丸と配置された連郭式の城である。
コスモス園が三の丸に設けられているが、マップで御本丸公園となっていたので本丸と思い込み引き返したが、後で二の丸、本丸は南南西にあることが分かった。後日、又見てみたい。
2回目の訪問は、丁度桜が満開で花見日和であった。本丸と二の丸間の堀切は深く見応えがある。
【案内】 県道242号線から東に行くと「コスモス園入口」があり、車道が三ノ丸(地図)下の駐車場まで続いている[マップコード141 021 509*13]。
三の丸の東に土塁があり一段下がって細長い「5の曲輪」に続いており、北東に空堀が残っている。
二の丸の両端に堀切があり、特に本丸側は深く橋が架けられている。本丸は広く南北50m以上はあった。その南の下段に「6の曲輪」がある。
【歴史】 『茂庭家記録』によると文覚館と云われ、文覚上人が築いたと云われる。
文覚上人の後裔の遠藤盛親が鎌倉公方足利満兼から志田・玉造・加美の3郡奉行に任じられ、応永八年(1401年)に関東より長世保に下向したと云われる。
以後、遠藤氏は天正十九年(1591年)登米郡石森に移る迄千石城を居城とし、松山郷を支配した。
天正十六年(1588年)遠藤高康が城主のとき、大崎合戦が起きた。
その後、石川昭光、古田重直が一時居城としたが、慶長八年(1603年)茂庭良元(もにわ よしもと)が領主となり、三の丸を改修し居館とした。
しかし手狭という理由で寛永八年(1631年)谷を挟んだ西向かいの丘陵に下屋敷として上野館を築き、隠居して慶安四年(1651年)に移った。
代わって定元が千石城に入り、明暦三年(1657年)藩の許可を得て上野館に居館を移した。千石城には留守居の家臣が置かれた。
延宝年間(1673~80年)に書かれた『仙台領古城書上』には志田郡松山4城の1つとして千石城が記され、このころには城として機能していなかったと思われる。『千石城の歴史・大崎市教育委員会』説明板より。