一宮城 (いちのみやじょう)
所在地 千葉県長生郡一宮町一宮3404 2016.12.7
一宮城 (いちのみやじょう)
所在地 千葉県長生郡一宮町一宮3404 2016.12.7
説明板
水堀
摸擬大手門
振武館
主郭・塀
加納久宣公の墓
一宮城 本丸跡(地図)
【遺構★★★☆☆】
【感想】 道路脇の竹藪の中に堀跡があり、大手門が復元されている。遺構は改変され少ない。振武館の東から、一宮小学校や一宮町の町並が眼下にあり、遠く太平洋が望める。
【案内】 外房線「上総一ノ宮駅」より西に行った国道128号線西側の標高約30mの丘陵にあり城山公園となっている。
大手門が復元され[マップコード130 448 287*13]、東の台地に振武館(表記番地)が建てられている。その南の高台に16代藩主加納久宣公の墓がある。
昭和六十二年(1987年)3月25日、一宮町の史跡に指定された。
【歴史】 永禄五年(1562年)九月に一宮城主内藤久長が館山城主里見義頼、万木城主土岐頼春、大多喜城主正木盛賢らに攻められ落城した説がある。
別の説として、同年七月に一宮城主糟谷大炊助が勝浦城主正木時忠、時通親子に攻められ数ヶ月後に落城、また永禄八年(1565年)二月から六月頃に落城と諸説ある。
天正十八年(1590年)、豊臣秀吉の小田原征伐の際に落城した房総の48城の中で、一宮城も本多忠勝ら数万の軍勢に攻められ再び落城した。
文禄元年(1592年)、本多忠勝の支配する大多喜領となった後、領主の変遷を経て明暦三年(1657年)には脇坂淡路守安元、また文政九年(1826年)には加納遠江守によって陣屋が設けられた。明治維新により取り壊された。『一宮町教育委員会説明板』より。