坂元城 (さかもとじょう) (坂本城・蓑首城)
所在地 宮城県亘理郡山元町坂元舘下166 2016.6.4
坂元城 (さかもとじょう) (坂本城・蓑首城)
所在地 宮城県亘理郡山元町坂元舘下166 2016.6.4
坂元小学校・城跡標柱
坂元小学校・城跡標柱
坂元神社参道
主郭・坂元神社
蓑首城趾碑
西側空堀
坂元城 本丸跡(地図)
【遺構★★★☆☆】
【案内・感想】 坂元神社(表記番地)が本丸跡で、北の一段下がった坂元小学校が二の丸跡である[マップコード332 287 737*32] 。
最高所の神社境内に蓑首城趾の標柱、説明案内板が建てられ、井戸跡が残っている。また、拝殿の西側に空堀が良く残っている。
【歴史】 元亀三年(1572年)に、亘理氏庶流の坂本俊久によって築かれた。
坂本氏はもともと南北朝時代の建武四年(1337年)に小斎峠近くに築かれた新城山城を居城としていたが、戦国時代の元亀元年(1570年)に坂本隆俊が海寄りに新たに愛宕山城を築いて移った。
しかし、翌元亀二年(1571年)に愛宕山城が相馬盛胤の攻撃を受けた際に、防戦の為に城から打って出た隆俊が討死した。
亘理からの増援を警戒した盛胤が兵を退かせたため、愛宕山城は辛うじて陥落を免れたが、跡を継いだ婿の坂本俊久は、愛宕山城を不祥の城であるとして廃城とし、翌年にさらに海寄りの蓑首山に坂本城を築き居城とした。
俊久の子・定俊は亘理重宗の娘を正室に迎え、天正十七年(1589年)に伊達軍が新地城を攻略した際には城代を命じられるなど、坂本郷周辺に勢力を張っていたが、天正十九年(1591年)に重宗が亘理城から涌谷城に転封されると、定俊もこれに随い遠田郡へと移った。
こうして空き城となった坂本城は伊達政宗の命を受けた浜尾行泰によって改修されたのち、後藤信康が新たに城主として入った。
その後黒木宗俊・津田景康と城主が交代し、元和二年(1616年)に大條(おおえだ)宗綱が城主となると、以後幕末に至るまで大條本家の居城となった。大條氏は8代宗綱以降、幕府の家老職や奉行職を務めた。一国一城令ののち要害になった(伊達21要害の一つ)。
正保元年(1644年)の村割りで、地名の表記が「坂本」から「坂元」へと変わったことにより、この城も坂元城(坂元要害)と書かれるようになった。
戊辰戦争敗戦後の明治二年(1869年)に廃城となった。
城址の地は同年に旧17代城主の伊達宗亮(大條道徳)が払下げを受けて所有していたが、明治六年(1873年)に三の丸址に坂元小学校を開設した(明治十三年(1880年)には二の丸址(現在地)に移転)。
明治四十一年(1911年)には本丸址の敷地を坂元神社(もとは天正二年(1574年)に坂本俊久が勧請した妙見社)に寄進した。