向羽黒山城 (むかいはぐろやまじょう) (国の史跡)
所在地 福島県大沼郡会津美里町船場 2013.11.9
向羽黒山城 (むかいはぐろやまじょう) (国の史跡)
所在地 福島県大沼郡会津美里町船場 2013.11.9
登城ルート
二の曲輪
一の曲輪登り口・説明板
一の曲輪空堀
一の曲輪
1の曲輪空堀
向羽黒山城 1の曲輪跡(地図)
【遺構★★★☆☆ 比高70m】
【案内・感想】 阿賀川の西の標高408.5mの向羽黒山の頂上が一の曲輪となっている。県道128号線より羽黒山への林道を2kmほど行った所に駐車場が用意されている[マップコード97 078 857*65](地図)。
車道を挟んで比高10mほどの二の曲輪が公園となっている。車道が堀切である。駐車場西の標識のある紅葉の径を登ると、帯曲輪、堀切を過ぎ、車道より比高約70mの頂上にある位置一の曲輪(本丸)に着く。北部には櫓台状の盛り土遺構が残る。一の曲輪からは会津盆地が一望できる。
平成13年(2001年)8月7日、国の史跡に指定された。
【歴史】 永禄四年(1561年)戦国大名の十六代蘆名盛氏が築城を開始、永禄十一年(1568年)完成し、蘆名氏の本拠となった。
本丸は軍事的に詰めの城であり、実質的には二の曲輪が近世の本丸(城主の居所)にあたる所と考えられ、一の曲輪の険峻さに比べ広く平坦で、水の手も近くにあり生活機能が重視されていた。平場上から建物の礎石が発見されている。
永禄四年(1561年)、蘆名盛氏の黒川城留守中に起きた庶兄・氏方の謀叛を鎮圧し、氏方は自害した。この年、蘆名盛氏は家督を嫡男・盛興に譲り、永禄十一年(1568年)向羽黒山城を築き隠居の城とした。
天正二年(1574年)十七代盛興は29歳で急死し、翌年盛氏は黒川城に戻り、向羽黒山城は空城となったが、以降も何らかの手が加えられ城として機能していたと考えられる。天正八年(1580年)盛氏が死去した(享年60)。
二階堂氏より養子に入った十八代盛隆も天正十四年(1586年)に早死にした。天正十七年(1589年)、蘆名氏と連年戦いを繰り返していた伊達政宗は佐竹氏より養子に入っていた十九代当主蘆名義広(享年14)を攻め、黒川城を本拠とする蘆名氏を滅ぼし、向羽黒山城も廃城となった。