長沼城 (ながぬまじょう) (錦着城)
所在地 栃木県真岡市長沼698 2018.2.17 2.21
長沼城 (ながぬまじょう) (錦着城)
所在地 栃木県真岡市長沼698 2018.2.17 2.21
登城ルート
本丸跡
本丸南西の空堀
長沼宗政の墓
宗光寺本殿
宗光寺北西側L形の内空堀
北側土塁・外空堀
長沼城跡(地図)
【遺構★★★☆☆】
【感想】 宗光寺案内板によると、「宗光寺は、鎌倉時代伏見天皇(在位1287~98年)より勅額を賜り長沼城跡に再建された」という。ここが初期の城跡で、その前に北東の地へ移されていたことになる。
古城跡の宗光寺は東西約140m南北約190mと広く、本堂の北側にL字形に空堀、土塁がよく残り、外側に浅い空堀が認められる。
また長沼城は、偶々行き会った古老に空堀や宗政の墓を教えてもらった。やはり云われなければ探すのは難しいので、登城ルートに図示しておいた。
【案内】 宗光寺東側の駐車場が利用できる[マップコード74 382 851*67]。長沼城は宗光寺(表記番地)の北東約300m、県道44号線の南にあったと云われ、ビニールハウスの畑や宅地となっており、わずかに空堀、土塁が残っている。
また南東に、いかにも古い「長沼淡路守宗政公之墓」が安置されている。
【歴史】 平将門の乱を平定した藤原秀郷が下野守に任ぜられ、その子孫の小山氏の一族小山宗政が元暦元年(1184年)に長沼の地に住し、長沼氏を名乗り長沼城を築いた。
『下野国誌』には「長沼城は芳賀郡長沼郷太田村にあり、長沼五郎左衛門尉宗政はじめて築く、元暦元年甲辰」とある。
その後長沼氏から、その庶流の皆川氏の支配下に入り、戦国時代を迎えた。文明三年(1471年)、12代成宗の時上杉氏に攻められ、滅亡した。