結城城 (ゆうきじょう) (臥牛城)
所在地 茨城県結城市結城 2012.11.9 2018.2.17
結城城 (ゆうきじょう) (臥牛城)
所在地 茨城県結城市結城 2012.11.9 2018.2.17
登城ルート
説明板
本丸跡・結城歴史公園
本丸西側空堀
三日月橋
本丸・中城間の土橋
本丸・中城間の空堀(東側)
結城城 本丸跡(地図)
【遺構★★★☆☆】
【案内・感想】 城跡北側の県道204号線横に駐車場が用意されている(地図)[マップコード74 196 680*85]。
南に遊歩道を登って行くと本丸跡は「結城歴史公園」となっており、台地のすぐ北東に田川が流れている。
西側に空堀が残り北と東は切岸になっており、聰敏神社が祀られ表忠碑や蕪村の句碑「ゆく春やむらさきけむる筑波山」が建てられている。
「本町会館」(結城市結城2498−14)の北に三日月橋があり、80mほど南に土橋があり、東西に伸びた空堀が残っている。
【歴史】 養和元年(1181年)志田義広の乱制圧の功により結城朝光は結城郡地頭職に補任され、寿永二年(1183年)結城城を築城した。
永享十二年(1440年)結城氏朝は、「永享の乱」で敗死した足利持氏の遺児春王・安王を戴き室町幕府に反旗を翻したが、翌年氏朝・持朝父子は討死、落城した。
文安四年(1447年)足利成氏が鎌倉公方再興を許されると、佐竹氏の庇護を受けていた氏朝の四男成朝が成氏に取り立てられ旧地に復し、結城城主となった。
天正十八年(1590年)豊富秀吉の小田原征伐で結城晴朝は豊臣方に付き、所領を安堵され、戦役後、秀吉の養子となっていた家康の長男秀康を養嫡子として迎えた。
慶長六年(1601年)秀康が越前北ノ庄城へ移封となり、結城城は破却され廃城となった。
元禄十三年(1700年)水野勝長が結城に移封され、元禄十六年(1703年)結城城の再興を幕府に願い出、再築城した。以後明治維新まで水野氏10代がこの地を治めた。
慶応四年(1868年)戊辰戦争で佐幕派に占拠され、このため新政府軍に攻められ落城し廃城となった。