上之国勝山館 (かみのくにかつやまだて) (上之国館・和喜の館) (国の史跡)
最寄地 北海道檜山郡上ノ国町勝山427 2014.8.5
上之国勝山館 (かみのくにかつやまだて) (上之国館・和喜の館) (国の史跡)
最寄地 北海道檜山郡上ノ国町勝山427 2014.8.5
登城ルート
夷王山
井戸・木樋
搦手・空堀・橋・土塁
搦手土塁・階段状平坦地
階段状平坦地・ 掘立建物跡
大手・空堀・橋・土塁
上之国勝山館跡(地図)
【遺構★★★★☆】
【案内・感想】 国道228号線(追分ソーランライン)の「道の駅もんじゅ」(上ノ国町原歌3)の先に「勝山館跡・夷王山→」の国道標識がある。大きく右折し約1.3km登ると勝山館跡ガイダンス施設[マップコード807 761 629*87](表記番地)駐車場がある。施設内には出土品などが展示されている。
建物裏より北に下りて300mほど行くと、搦手入口に着く(地図)。途中に墳墓が40基ほどあり、水場に井戸・木樋、ごみ捨て場などがある。
搦め手は標高110mほどあり空堀と土塁があり、木橋が架けられている。なだらかな斜面を雛壇式に削平した掘立建物跡が、十棟ほど平面復元され、北東の標高約100mの大手に至る。
大手は空堀があり橋と柵が復元されている。東西は最大110mほどである。大手より比高100m、距離約350mの道を下ると上国寺の横に出る。
夷王山の北東中腹に位置し、規模は東西100m南北250mほどであり、山頂側に中世和人の墳墓群が残っている。
昭和五十二年(1977年)4月12日、「上之国館跡」として花沢館跡、洲崎館跡と共に国の史跡に指定された。
【歴史】 嘉吉三年(1443年)十三湊(とさみなと)を治めていた下国宗家安藤(安東)盛季が南部義政との戦いに敗れ夷島(えぞがしま)に渡った。
盛季の子康季や孫の義季は、津軽に攻め返したが、享徳二年(1453年)義季が南部氏に敗れ下国安藤氏宗家は断絶した。
十三湊が滅びたとき盛季の弟安藤四郎道貞の孫・師季は南部氏に囚われたが、長じて政季と名を改め田名部を治めていたが、享徳三年(1454年)南部氏からの独立を目指し、弟家政や蠣崎にいた武田信広、河野政通や相原政胤などを従え大畑から夷島へ海を渡った。
康正二年(1456年)秋田の湊安藤氏から男鹿染川城に呼び寄せられた安藤政季は、大館の下国安藤定季を松前守護、茂別館に弟家政をおいて下之国守護とし、花沢館の蠣崎季繁を上之国守護として守らせた。 勝山館は蠣崎季繁の娘婿・松前氏初代武田信広が文明二年(1470年)頃築いた。
永正十一年(1514年)二代蠣崎光広が松前に進出して安藤氏の夷島代官になると勝山館は大館(松前)の脇館となり、慶長年間の初めまで城代が置かれた。
5代目の蠣崎慶広が、豊臣秀吉や徳川家康から夷島の主と認められ、名前も松前と変えたころ、勝山館の役割も変わり、檜山番所へと引き継がれた。
延宝六年(1678年)檜山番所は江差に移り、檜山奉行所となった。
江戸時代、松前藩主や家臣が夷王山山頂の社へ参詣のために通った参道が今も上国寺横より通じている。