浜崎城 (はまさきじょう) (藤森城) (村の史跡)
所在地 福島県河沼郡湯川村浜崎北殿町1456 2021.5.25
浜崎城 (はまさきじょう) (藤森城) (村の史跡)
所在地 福島県河沼郡湯川村浜崎北殿町1456 2021.5.25
配置図
南側堀・説明板
南西側堀・土塁
東の土塁・堀・標識
本丸に建つ民家
北東土塁・堀
北東土塁
浜崎城 本丸跡(地図)
【遺構★★★☆☆】
【感想】 日橋川左岸の平地に築かれており、本丸は一辺約110mの方形で民家敷地や畑となっているが、城跡の北東側と南西側に土塁及び堀がよく残っている。
北西側の二の丸は民家敷地や畑となり、遺構は少ない。
【案内】 県道326号線より南の村道横の表記番地前に説明板が建てられている[マップコード97 617 153*01]。
南西側にⅬ字形に堀跡の窪地があり、民家に土塁が見られる。北東側にもⅬ字形の土塁と堀が残っている(地図)。
昭和五十六年(1981年)3月27日湯川村の史跡に指定された。
【歴史】 『真壁文書』によれば、観応三年(1352年)正月から三浦若狭守(葦名直盛か)は、真壁政幹の代官・薄景教らを率いて、河沼郡の合川・浜崎城・蜷河庄政所館(会津坂下町)を攻めている。このことからそれ以前に浜崎城は築かれていたことを物語る。
宝徳三年(1451年)と享徳二年(1453年)の葦名氏の内紛による二度にわたる浜崎城をめぐる合戦があり、浜崎城は落城し、浜崎政頼や松本通輔の一党は滅亡した。
天正十八年(1590年)会津は蒲生氏郷の所領となり浜崎城には蒲生喜内頼郷が入ったが、日橋川と大塩川の合流する岬にあった浜崎城は水害に悩まされた。
慶長六年(1601年)蒲生秀行の代には蒲生主計介郷貞が入り、郷貞は水害を恐れて日橋川南の現在地に新たに築城した。
元和元年(1615年)の一国一城令で廃城とすべきであったが、蒲生氏は「茶屋」と名付けてしばしの年月そのまま残しておいた。『現地説明板』より。