金ヶ崎城 (かねがさきじょう) (金ヶ崎要害) (町の史跡)
最寄地 岩手県胆沢郡金ケ崎町西根裏小路2−12 2021.5.24
金ヶ崎城 (かねがさきじょう) (金ヶ崎要害) (町の史跡)
最寄地 岩手県胆沢郡金ケ崎町西根裏小路2−12 2021.5.24
説明板
登城ルート
南側入口・空堀
二の丸入口
二の丸南の空堀
二の丸・説明板
二の丸北側
諏訪公園
金ヶ崎城 二の丸跡(地図)
【遺構★★☆☆☆】
【感想】 北上川右岸の台地に築かれ、北より2郭、蔵館、1郭、東館、観音館と並び南側に大庭があったという。
北上川による浸食で、蔵館は消滅し、2郭、1郭、東館、観音館も浸食で一部が残っているというが、民家敷地になりあまりはっきりしない。
古図を地理院地図に当てはめてみたが、南側の大庭の切岸や堀跡の2郭南の窪地が見られる程度であった。
【案内】 県道108号線に面した「白糸まちなみ交流館」(表記番地)前にトイレ付きの駐車場がある[マップコード108 105 187*00](地図)。
東に歩いてゆくと大庭に「金ヶ崎城跡」の標柱があり、さらに東に案内標識と空堀がある。
「城内集会所」あたりが東館、その先が1郭で民家が建てられ遺構は消滅している。空堀状の低地の西に広い2郭がある。
金ヶ崎町の史跡に指定されている。
【歴史】 伝承によると、延暦二十一年(802年)坂上田村麻呂が蝦夷征討時に築城したと云われる。
前九年合戦の頃(1051~62年)安倍貞任の叔父金為行が居城、その後貞任の女(むすめ)白絲前(しらいとのまえ)が住んだと云われる。
天正十九年(1591年)当地が伊達領になると、南部領と接することから金ケ崎要害が置かれ、桑折氏(1602~14年)や留守氏(1615~29年)が統治した。
寛永二十一年(1644年)伊達氏の一族大町定頼が入り、以降大町氏代々が二の丸にて明治維新まで西根村の治世に当たった。