岩谷堂城 (いわやどうじょう) (江刺城・柄杓ヶ城・岩谷堂要害)
所在地 岩手県奥州市江刺区岩谷堂舘下 2017.10.25
岩谷堂城 (いわやどうじょう) (江刺城・柄杓ヶ城・岩谷堂要害)
所在地 岩手県奥州市江刺区岩谷堂舘下 2017.10.25
入口・御館坂
二の丸南の水堀
二の丸・岩谷堂高校グランド
中の郭
中の郭東の空堀
本丸(御館)跡
本丸東側の横堀
岩谷堂城 本丸跡(地図)
【遺構★★★★☆ 比高50m】
【感想】 人首川右岸の標高114.9mの御館山に本丸があり、南西に中の郭、二の丸と配置され、空堀、横堀、水堀、土塁がよく残っている。
本丸には舘山八幡神社が祀られ、二清院(藤原経清・清衡父子の顕彰施設)が建てられている。
【案内】 国道456号線より東に行った「協和納税会館」(奥州市江刺区六日町4−1)横に「岩谷堂城御館坂」の石碑が建てられている[マップコード108 081 684*85]。
岩谷堂高校グランド(二の丸)脇を通って約1㎞車道を登ってゆくと、「館山史跡公園」の駐車場が用意されている[108 112 253*30](地図)。
途中グランドの南に水堀があり、グランドの北西に空堀、中の郭、空堀、本丸と並んでいる。本丸には土塁が残り、横堀が残っている。
【歴史】 平安時代末期、藤原経清とその子藤原清衡父子の居住した城砦とも伝えられている。
葛西氏の家臣・江刺氏によって築城されたと云われる。明応四年(1495年)葛西氏との合戦で江刺氏が敗れ、葛西政信の孫・重胤が城主となった。
天正十八年(1590年)七月豊臣秀吉による小田原征伐に参陣しなかった葛西氏は、奥州仕置により改易され、木村吉清の家臣溝口外記が入った。
しかし、同年十月に起きた葛西大崎一揆との戦いで外記は討死し、一揆鎮圧後、伊達政宗の所領となり、家臣の桑折摂津守が入った。
江戸時代に入り、万治二年(1659年)伊達宗規が岩谷堂要害五千石で転封となり、岩谷堂伊達氏となった。その後幕末まで伊達氏一門の岩谷堂伊達氏(岩城氏)の居館として機能し、岩谷堂要害と呼ばれた。