多胡館 (たごやかた)
最寄地 群馬県高崎市吉井町多胡36 2020.8.22
多胡館 (たごやかた)
最寄地 群馬県高崎市吉井町多胡36 2020.8.22
登城ルート
東側市道の標識
標柱
土塁・民家
土塁・説明板
西側空堀
多胡館跡(地図)
【遺構★★☆☆☆】
【感想】 吉井町多胡の一辺約100mの正方形の館跡で、住宅地や屋敷林となっている。
土塁や西側に空堀のような窪みが見られるが、笹や葛が覆っておりはっきりしなかった。
【案内】 高崎市吉井町多胡の表記番地北側に入口があり標識が立てられている[マップコード247 598 206*74]。
少し入ると「多胡館跡→」の標柱が建てられ、さらに西に説明板が建てられている。
昭和五十二年(1977年)3月24日、吉井町(現高崎市)の史跡に指定された。
【歴史】 源氏の棟梁源為義の次男義賢の居館とされている。義賢は近衛天皇が皇太子だったころ(1139~41年)、警備役である帯刀(たてわき)の長官だったという。その後多胡館に住んだらしい。
義賢は久寿二年(1155年)武蔵国大蔵館で甥義平に殺されているのでこれ以前に多胡館から大蔵館に移っていると考えられる。このことから義賢が多胡館に住んだのは1140年代から50年代にかけてと考えられる。
義賢の子が義仲で、治承四年(1180年)木曽で平家討伐の兵を挙げ、俱利伽羅峠の戦いなどで勝利し京都から平家を追放した。そして朝廷から征夷大将軍に任じられるなど武将として最高の地位についた。しかし、源義経の軍に敗れ、寿永三年(1184年)近江国で戦死した。