白井城 (しろいじょう)
最寄地 群馬県渋川市白井651 2013.11.20
白井城 (しろいじょう)
最寄地 群馬県渋川市白井651 2013.11.20
登城ルート(緑線は車道)
三の丸
二の丸空堀
二の丸
城址碑・本丸空堀
本丸跡・土塁
本丸南空堀
白井城 本丸跡(地図)
【遺構★★★★☆】
【案内・感想】 利根川と吾妻川が合流する台地の吾妻川左岸にある連郭式の崖端城である。遺構はよく残っている。
国道17号線「鯉沢」交差点より南東に400mほど行き、直角に南に60m、直角に東に200m、直角に南に100m行くと表記番地の向いの土塁上に城山不動尊がある[マップコード183 016 890*41](地図)。
その南に「北郭」があり、空堀を挟んで三の丸、空堀を挟んで二の丸がある。二の丸、三の丸は畑になっている。
二の丸の南に深い空堀があり、桝形門を経て土塁をめぐらした本丸跡がある。
本丸虎口に土橋、石垣が残り、城址碑、説明板が建てられている。本丸の南土塁上に祠が祀られ、空堀がある。その南に出郭がある。
土塁上に立つと、吾妻川を挟んで榛名の山々の絶景が望める。
【歴史】 享徳の乱(1455~83年)の頃、関東管領山内上杉憲実の信任厚かった長尾景仲によって築城されたと伝えられている。
戦国時代は白井長尾家の根拠地の役割を果たした。景仲の孫・景春の孫景誠が大永七年(1527年)に家臣に暗殺され、城主は総社長尾家から長尾憲景が入り白井長尾家を継いだものの勢力が減退、長野氏などに圧迫されるようになった。
山内上杉氏が越後に逃れると、白井城は山内上杉氏の名跡を継いだ上杉謙信の勢力下に入った。
永禄年間に入ると甲斐の武田信玄が上野国に進出し、永禄三年(1560年)真田幸隆・信綱により白井城は落城した。
その後、白井長尾家が奪回するが、越後で上杉氏の内乱(御館の乱)で、上州武士の支持する上杉景虎が敗北したため、長尾憲景は敵対していた武田家に投じた。
武田滅亡後は後北条氏に属し、憲景の死後に子の政景が城主となったが、天正十八年(1590年)の小田原征伐で松井田城を攻略した前田・上杉氏らの北方軍によって北郭を占領され五月十五日に開城、白井長尾家の支配は終わった。
徳川家康の関東入封により本多康重が2万石で白井藩を立てた。その後は藩主が目まぐるしく変わった。
関ヶ原の戦いの後、慶長六年(1601年)武蔵国東方城から松平康長が入り、慶長七年(1602年)には1万石で井伊直孝が藩主になり、元和二年(1616年)直孝が本家を継ぐため転出すると西尾忠永が2万石で入った。
そして元和四年(1618年)、本多康重の次男・本多紀貞が1万石で取り立てられが、元和九年(1623年)、紀貞は嗣子なく死去し、白井藩は廃藩、白井城は廃城となり破却された。