古河城 (こがじょう)
所在地 茨城県古河市中央町3-10 2013.8.12 2013.12.29
古河城 (こがじょう)
所在地 茨城県古河市中央町3-10 2013.8.12 2013.12.29
縄張り図
本丸跡の標柱
頼政神社入口
頼政神社
諏訪曲輪・堀
諏訪曲輪・堀
古河城 本丸跡(地図)
【遺構★★☆☆☆】
【案内・感想】 古河歴史博物館(表記番地)の東に堀があり、堀の内側が諏訪曲輪跡である(地図)。堀の外には鷹見泉石記念館等が建っている。
本丸三階櫓跡は国道354号線三国橋交差点の南約700m[マップコード45 668 089*57]より堤防に登った辺りに、「古河城本丸跡」の標柱が建てられている(地図)。
その南西が二の丸、北が三の丸であった。その南に頼政曲輪、立崎曲輪があり三の丸の北に桜町曲輪、観音寺曲輪(地図) (北西端にあった頼政神社が、大正元年の河川改修により現在地(古河市錦町9−5)に移された)、堀を隔ててその東に現博物館の建つ諏訪曲輪がある。
北は県道9号線、南は国道354号バイパス、東は一向寺西あたりまでが江戸時代の古河城の範囲である。
【歴史】 治承四年(1180年)頃源頼朝に従った下河辺行平が立崎に城館を築いた。このころ以仁王の挙兵で自害した頼政の首を従者下河辺行義が持ち帰り、立崎に葬ったと言い伝わる。近世古河城の頼政曲輪の頼政神社である。
享徳の乱に於いて、五代鎌倉公方足利成氏は、関東管領山内上杉氏と争い、享徳四年(1455年)今川範忠に鎌倉を占拠されると、古河に本拠を移し、古河公方が成立した。室町幕府は上杉氏を支持し、新たな鎌倉公方として足利政知(堀越公方)が東下して、30年近く足利・上杉両勢力は争う。古河公方は130年間引き継がれ、古河は室町後期から戦国時代の関東の中心の一つとなる。
永禄年間(1558~70年)上杉謙信と北条氏康が公方擁立を巡って古河城を奪い合った。次第に後北条氏の勢力下に入り天正年間北条氏照により整備、拡充が行われた。
天正十八年(1590年)豊臣秀吉が北条氏を亡ぼした後、家康に従った小笠原秀政が松本城より入部、整備拡充が行われ、古河藩の政庁が置かれた。
慶長七年(1602年)上野白井城より松平康長が入り、慶長十七年(1612年)小笠原信之が城主となる。
元和五年 (1619年) 奥平忠昌が城主となる。忠昌は立崎曲輪と諏訪曲輪(長谷曲輪)を拡張した。元和八 年 (1622年)永井直勝が城主となった。直勝は御成門を築いた。のち、寛永三年(1626年)に尚政が継ぐ。
寛永十年 (1633年)土井利勝が城主となった。利勝は、前任地の佐倉城にならって、本丸に御三階楼を造営したほか、本丸御殿、二の丸御殿を造営した。以後、城主は徳川の要職を務めることが多く、大老の土井利勝・堀田正俊、老中の永井尚政・松平信之・本多忠良・土井利厚・土井利位などである。
寛永二十一年に利隆、万治元年 (1657年) に利重、延宝元年 (1673年) に利久、延宝三年に利益が継いだ。
天和元年 (1681年)堀田正俊が城主となり、貞享元年 (1684年) に正仲が継いだ。翌年、松平(藤井)信之が城主となった。翌年に忠之が継いだ。貞享四年(1687年)には、幕府を批判した熊沢蕃山が預けられ、城内の立崎曲輪に幽閉された。
元禄七年 (1694年)松平(大河内)信輝が城主となった。信輝は城内の頼政神社を整備した。のち、宝永六年(1709年)に信祝が継ぐ。
正徳二年 (1712年)本多忠良が城主となった。のち、宝暦元年 (1751年) に忠敝が継いだ。
宝暦九年(1759年)石見浜田城より移った松平(松井)康福が城主となった。
宝暦十二年 (1762年)土井利里が城主となった。のち、安永六年(1777年)に利見、同年に利厚、文政五年(1822年)に利位、嘉永元年(1848年)に利亨、同年に利則、慶応三年(1867年)に利与が継いだ。
明治四年 (1871年)の廃藩置県により、古河藩は古河県に改められた。明治六年 (1873年)政府の廃城令により、城の取り壊しが決定し、翌年には建造物がすべて破却された。
明治四十三年(1910年)から大正十四年(1925年)までの渡良瀬川改修工事で城跡も諏訪曲輪以外ほぼ消滅した。近代化を急ぐ往事の世相かも知れない。