柄杓山城 (ひしゃくやまじょう) (桐生城)
最寄地 群馬県桐生市梅田町1丁目702 2013.11.29 2022.6.18
柄杓山城 (ひしゃくやまじょう) (桐生城)
最寄地 群馬県桐生市梅田町1丁目702 2013.11.29 2022.6.18
登城ルート
三の堀切
三の丸
北郭・堀切
二の堀切
二の丸
本丸堀切・竪堀
本丸跡
柄杓山城 本丸跡(地図)
【遺構★★★★☆ 比高60m】
【感想】 桐生市梅田町1丁目の標高361.1mの城山に築かれている。
本丸の北西尾根に二の丸、三の丸があり、北に北郭が配置され、それぞれの郭間を深い堀切で遮断している。
二の丸、本丸には西側に横堀があり、北郭を含め遺構は多くよく残っており、見所は多い。
【案内】 県道66号線より西に碧雲寺(表記番地)の南の林道を約1.5km行くと、林道に面して駐車場がある[マップコード261 118 512*34](地図)。
そこより、車両通行止めの林道を150mほど行き、土砂置き場の道路右の遊歩道を400m位登って行くと、三の堀切があり、東側にやや傾斜した三の丸がある。
二の堀切から左斜めに登ると二の丸跡があり、北側に一段下がって堀切、北郭がある。
細長い二の丸の西側に横堀が見られ、西端に低い土塁が残っている。
深い一の堀切から南東に登ると、段郭があり横堀の上に本丸があり城址碑が建てられている。本丸の南側に板石を積んだ石垣があり、木材で補強されている。
【歴史】 観応元年(1350年)桐生国綱によって築城された。
永享十二年~嘉吉元年(1440~41年)結城合戦に桐生正綱の弟正俊が出陣した。 康正元年(1455年)享徳の乱に谷近綱が出陣し戦死した。
戦国時代には北条、上杉氏に従い新田金山城の由良氏と争った。桐生真綱の代に後桐生氏の全盛期を迎えた。
永禄三年(1560年)桐生助綱は北条氏の討伐に向かう関東管領長尾景虎(上杉輝虎・謙信)に従った。
元亀元年(1570年)助綱が死去し、佐野昌綱の子桐生親綱が桐生氏の養子として後を継いだ。このころ、渡良瀬川・桐生川の灌漑用水を巡り、桐生氏と由良氏の対立が表面化、小競り合いが繰り返されるようになる。
里見上総介勝広をよく思わない家臣による諫言を桐生親綱が誤解し勝広を切腹させ、桐生氏は弱体化した。元亀三年(1572年)太田金山の由良成繁は柄杓山の桐生親綱を攻め追放し、金山城を子に譲り、柄杓山城を本拠地とした。
天正六年(1578年)由良成繁の死去に乗じて桐生親綱が柄杓山城奪回を図るが、失敗した。
天正十八年(1590年)後北条氏の滅亡に伴い、由良氏は牛久へ領地替えとなり、柄杓山城は廃城となった。