佐倉城 (さくらじょう) (鹿島城) (日本100名城20)
所在地 千葉県佐倉市城内町117 2012.8.29
佐倉城 (さくらじょう) (鹿島城) (日本100名城20)
所在地 千葉県佐倉市城内町117 2012.8.29
椎木門跡
姥ヶ池
礎石
空堀
ハリスと堀田正睦銅像
本丸曲輪・土塁
銅櫓跡
佐倉城 本丸跡(地図)
【遺構★★★★☆】
【案内・感想】 佐倉城跡の東端に「国立歴史民俗博物館」(表記番地)が建てられており、駐車場が用意されている[マップコード27 791 323*38]。
西に向かうと二の丸であり佐倉陸軍病院跡や佐倉城の礎石が展示してある。椎木門跡の看板があり、その南を下りたところに姥ヶ池がある。
二の丸跡の西へ行くと空堀があり、日米修好通商条約締結に関わったタウンゼント・ハリスと堀田正睦の銅像が建てられている。
南に三の門跡、本丸に向かう道に二の門跡、子規の「常磐木や冬されまさる城の跡」の句碑が立ち、その先に一の門跡があり土塁で囲われた本丸曲輪がある。
本丸曲輪の北側に銅櫓跡、周囲に土塁、西北に水堀がある。天守閣は造られなかった。またハリスの銅像の南に下りたところに出丸跡がある。
平成十八年(2006年)4月6日、日本100名城(20番)に選定された。
【歴史】 戦国時代、本佐倉城主・千葉親胤が鹿島幹胤に命じて築城が開始された。
千葉親胤は古河公方の足利晴氏と手を結び、そのために北条氏康の侵攻を受けて捕らえられ、家督を叔父(あるいは兄)の海上(千葉)胤富に譲渡させられた上で幽閉され、弘治三年(1557年)、暗殺されてしまった(享年十七)。そのため工事は中止された。
二代後の千葉邦胤も工事を試みたが同じく天正十三年(1585年)暗殺(享年29)され工事は中止された。
慶長十五年(1610年)徳川家康の命を受け、土井利勝により築城が再開され完成し、佐倉藩の藩庁が置かれた。城主は江戸幕府の要職に就くことが多く、入れ替わりが多かった。
江戸初期に城主であった堀田正信(のちに改易された)の弟・正俊の孫正亮が11万石で再入封してからは安定した藩経営を行っている。
文化十年(1813年)盗賊の失火により天守が焼失した。明治維新後の廃城令で建物は撤去された。その後陸軍歩兵連隊の駐屯地になり、佐倉城の名残をとどめるものは少なくなった。