古川城 (ふるかわじょう)
所在地 宮城県大崎市古川二ノ構7-67 2016.6.4
古川城 (ふるかわじょう)
所在地 宮城県大崎市古川二ノ構7-67 2016.6.4
説明板
大銀杏・説明板
古城稲荷大明神
緒絶川
瑞川寺山門
古川城 本丸跡(地図)
【遺構★☆☆☆☆】
【案内・感想】 大崎市役所の西、鯉の泳ぐ緒絶川に面した「古川第一小学校」(表記番地)、「古川中学校」の敷地となっている[マップコード141 249 839*38] 。
小学校校庭の大銀杏の前に説明板が建てられている。小学校南西隅に「古城稲荷大明神」が祀られ、堀跡の用水路がある。
古川城主鈴木和泉守元信の菩提寺である瑞川寺山門は、慶長はじめの頃、元信が搦手門を寄進したものとされる。
昭和四十五年(1970年)12月5日、当時の古川市の史跡に指定された。
【歴史】 古川城の成立年代は明らかではないが、室町時代中ごろ、大崎氏7代教兼(のりかね)の6男(名不明)が、初めてこの地で古川氏を名乗ったことが見える。しかし、古川城主古川刑部持慧(もちさと)とみえるのは天文年間(1532~55年)からである。
即ち、大崎義直の家臣である新田(にいた)安芸頼遠、古川刑部等一族が古川城に拠って、義直に背いた。
義直は福島の伊達稙宗(たねむね)に援軍を要請し、古川城は3日間の攻防戦の末落城、ついに古川氏は滅亡した(天文の役)。
その後、天正年中は古川弾正が居城したが、天正十八年(1590年)大崎氏と共に失脚した。
続いて豊臣秀吉の家臣木村伊勢守吉清の子清久が城主となったが、葛西大崎一揆により数ヶ月で失脚した。
代わって伊達政宗の家臣鈴木和泉守元信が城主となった。鈴木和泉守は古川城の搦手門を撤去して三日町瑞川寺の山門として寄進したり、町割りを行い、市日を興すなど古川の基礎を築いた。
しかし、正保二年(1645年)鈴木氏3代宗良が桃生郡深谷に転封されてからは藩の直轄地となり、廃城となった。
その後、この城は藩の御蔵場として転用され、明治九年(1876年)からは小学校用地となり現在に至っている。
かって古川城は典型的な平城で、50間×70間の規模の本丸を中心にほぼ円状に土塁と周濠がめぐり、更に二ノ構(二の丸)、三ノ構(三の丸)と濠で区画された外郭をそなえていた。『大崎市教育委員会説明板』より。