館城 (たてじょう) (国の史跡)
所在地 北海道檜山郡厚沢部町城丘 2014.8.5
館城 (たてじょう) (国の史跡)
所在地 北海道檜山郡厚沢部町城丘 2014.8.5
登城ルート(緑線は車道)
西側道路・門柱
力試石・武士部屋・役所跡
城址碑(昭和30年)
井戸跡
百間堀・土塁
百間堀・土塁
館城跡(地図)
【遺構★★★☆☆】
【案内・感想】 厚沢部町城の道道634号線より東に折れるとすぐ冠木門を模した「館藩・館城址」の門柱があり400mほど行く[マップコード 482 476 168*32 ]。城址を道道634号線が東西に横切っている。
北側の本丸跡に「館城址」の石碑や「松前氏城跡館城跡」の木碑や看板が建てられ、三本の井戸跡が残る。西に「三上超順力試之石」の碑及び力試石がある。
道道南側の南辺に百間堀・土塁が東西に延びて残っている。
面積は1万坪(約33万㎡)、四方を幅二間の空堀で囲み、土塁を巡らし、内側に丸太で柵を作り、西側に表門、北側に裏門を設け、郭内に本丸・役所・武士部屋二棟、賄部屋・米倉などを設けたが、本丸以外は簡素な造りであった。
城の周囲は、東・西・北が川、南が山に囲まれ、地形では恵まれていた。
平成十四9月20日、国の史跡に指定された。平成十八年(2006年)7月28日「松前氏城跡」として指定された。
【歴史】 蝦夷地を支配する松前藩は松前城を本拠としていたが、慶応四年(1868年)七月に起こった正義隊のクーデターにより尊王派に転じた後、旧幕府軍の攻撃に備えて、内陸部に新城を建設することとし、九月一日、箱館府に築城を願い出るとともに、工事に着手した。
松前城は艦砲射撃を受けるおそれがあること、従来の漁業・交易経済からの転換を図るため厚沢部川流域開墾の拠点とすることが館城築城の目的であった。
工事を突貫で進めた結果、明治元年(1868年)十月二十五日には一応の完成を見た。
箱館戦争が始まると、旧幕府軍の松前城攻撃に先立ち、松前藩主一族は十一月三日館城に移動した。
十一月五日の松前城陥落後も松前藩は降伏せず、館城・江差を拠点に態勢を立て直す姿勢を見せたため、十一月十日、松岡四郎次郎が率いる一聯隊二百名が館城攻略のため、五稜郭を出発した。十一月十三日に途中の稲倉石(現・厚沢部町)を抜き、十一月十五日、館城攻略戦が行われた。
藩主一族は十一月十二日に江差に避難しており館城守備隊は六十名程度だけであった。午前九時頃攻撃が開始され、1時間ほど激しい銃撃戦が続いた後、表門の下の隙間から侵入した旧幕府兵が門を開け、兵が乱入し白兵戦となった。
まな板を盾にしつつ太刀で戦い壮絶な戦死を遂げた松前法華寺の元僧侶である軍事方・三上超順の奮戦もあったが、昼頃には落城・焼失し、松前兵は敗走した。
なお、館城には松前城から運んだ什器・宝物類があったが、旧幕府軍は後日、人に託して松前藩へ返却している。箱館戦争終結後、松前藩は館城にちなんで、館藩を称した。