楯岡城 (たておかじょう)
最寄地 山形県村山市楯岡東沢1‐25 2015.6.12
楯岡城 (たておかじょう)
最寄地 山形県村山市楯岡東沢1‐25 2015.6.12
登城ルート
登り口
主郭・展望台
主郭の櫓跡碑
中楯山山頂の標柱
副郭跡
中楯山東の堀切
東盾山
楯岡城 主郭跡(地図)
【遺構★★★☆☆】
【案内・感想】 市立東沢バラ公園管理事務所(表記番地)南に駐車場がある。現在は一部が東沢公園として整備され、ハイキングコースとなっている。大沢貯水池堤防西側に案内図が建てられ、東沢溜池の南を通って1.2㎞行くと、登り口がある。
また県道20号線の湯沢沼北の交差点より沼の西側を通って、登り口付近に駐車場がある[マップコード62 858 008*23](地図)。ここは西楯山に最も近い。
約300m登ると尾根に出、右(北西)に150m行くと主郭跡の西楯山頂上(標高209.8m登り口より比高55m)で、左(南東)に200m行くと副郭跡の中楯山頂上(標高209.8m)があり、更に南東に300m行くと航空障害灯の建つ東楯山頂上(標高233m)に着く。「楯山城跡」は西楯山の主郭、中楯山の副郭から構成されている。
西楯山の主郭は東西400m南北200mの広さがあり、展望台(説明板)、「楯山城城櫓跡地」の碑が建てられている。西に一段下がった郭に「手水石」があり、周囲を断崖絶壁で囲まれた要害である。
中楯山には「中楯山山頂」碑が建てられ、東西200m南北150mの二段になった広い副郭があり、東側に堀切が残っている(地図)。
東楯山頂上には「龍石」があり、公園となっている。
【歴史】 承元二年(1208年)、前森氏初代今嶺守の築城とされる。二代前森泰嶽守、三代泰院守、四代下綱守と続いた。
前森氏の没落後、弘長元年(1261年)に本城氏初代関山守が入り、二代本城涼山守、三代泰国守、四代風国守、五代安国守と続いた。
本城氏の没落後、応永十三年(1406年)に最上満直の四男、楯岡伊予守満国が入った。二代河内守満正、三代和泉守満次、四代豊後守満春、五代長門守満康、六代因幡守満英、七代豊前守満茂と続いた。
七代満茂は最上義光(よしあき)の命を受け、湯沢城を攻め落としその城主になり、のち秋田の本荘城主に移った。
楯岡城では城主不在となり、勤番を置き管理した、中山玄蕃(長崎城主)、山野辺右ェ門義忠(山野辺城主)、鮭延越前守愛綱(真室(鮭延)城主)が務めた。
元和四年(1618年)最上義光の弟楯岡(多田甲斐守)光直が城主となり、城郭の整備、湯沢沼の築堤、切通しの開削を行い、城下町を整備したと伝わっている。
光直は義光の死後最上家家臣と跡目相続で対立し、それが原因で二代多田甲斐守義賢の時、元和八年(1622年)に最上氏は改易となり、楯岡城も連座して幕府より没収され、廃城となった。
義賢の碑は切通しの愛宕神社境内に残されている。『村山市郷土史研究会』説明板より。