人見氏館 (ひとみしやかた) (県の史跡)
所在地 埼玉県深谷市人見1514 2015.2.4 2.6
人見氏館 (ひとみしやかた) (県の史跡)
所在地 埼玉県深谷市人見1514 2015.2.4 2.6
空堀・説明板
土塁
人見氏累代の墓
人見氏館跡(地図)
【遺構★★☆☆☆】
【案内・感想】 「人見集落排水センター」より南に約50m、唐沢川の南に「人見城跡」の説明板が建てられている[マップコード34 002 341*16](地図)。
民家(表記番地)の西側に約70mに亘って土塁があり、西端に南北約60mに亘って二重の空堀が残っている(地図)。その南にも空堀がある。
『埼玉縣史』によれば、東西二郭に分れ、本丸と考えられる西郭は東西187m、南北160mを有して土塁と空堀をめぐらし、西郭より109m隔てて東郭があり、東西136m南北177mの規模で同じく土塁と空堀を廻らしている。
更に両郭の間には半月状の土塁を有する郭があり、その南側には広い馬場があったと推定される。東郭は畑、民家となり遺構はない。
館跡の約500m南の「一乗寺」(深谷市人見1621−2)に人見氏累代の墓がある。 昭和九年(1934年)3月31日、県の史跡に指定された。
【歴史】 人見氏は武蔵七党(横山党、猪俣党、野与党、村山党、西党、児玉党、丹党)の一つ、猪俣党の猪俣政基が河匂(かわわ)氏を称し、その子河匂政経が人見の土地に居住し人見六郎と称した。
その子小三郎行経は建久元年(1190年)頼朝上洛の随兵を務めている。その子人見太郎高経は、承久三年(1221年)承久の乱の宇治合戦に於いて、武蔵守北条泰時に属し戦功があったことが『吾妻鏡』に記されている。
その後、四代高経の孫・人見四郎入道恩阿は、元弘三年(1333年)二月、阿曽弾正少弼率いる幕府軍に加わり、楠木正成の籠もる河内国上赤阪城攻めに於いて先陣となり壮絶な死を遂げた。
室町時代初期、人見氏は丹波国に移った。
室町時代中期、十五世紀に深谷上杉氏一族の上杉憲武(のりたけ)が人見氏の館跡を改修して居住した。
この時、現在の遺構にみられるような本格的な中世の城郭となった。憲武のその後の動向はよくわかっていない。