亘理城 (わたりじょう) (臥牛城・亘理要害)
所在地 宮城県亘理町旧舘32 2013.11.8 2017.4.22
亘理城 (わたりじょう) (臥牛城・亘理要害)
所在地 宮城県亘理町旧舘32 2013.11.8 2017.4.22
説明案内板
本丸跡
亘理神社
戊辰の碑(左側)
内堀
二の丸
亘理城 本丸跡(地図)
【遺構★★★☆☆】
【感想】 城跡の西北側、南側に、東北大震災の津波に被災された人の、プレハブ仮設住宅が建設されている。
【案内】 国道6号線より県道10号線に入り、東に350mほど行った信号西を右折して登ると亘理神社駐車場がある[マップコード156 417 617*48]。
臥牛城ともいう本丸跡には、亘理神社(表記番地)があり、また西側の土塁近くに戊辰戦争犠牲者の碑が建てられている。本丸東側は道路で分断されている。
本丸西の馬場跡は現在亘理高校となっており、本丸南側に内堀跡が残っている。
二の丸は東側にあり、ショッピングセンター敷地となっている。
【歴史】 伊達稙宗(たねむね)の十二男で亘理氏に養子に入った亘理元宗が築城し、亘理氏の居城を小堤城(現在の亘理町泉ヶ入88大雄寺)から移した。
亘理重宗が天正十九年(1591年)涌谷城に移った後、片倉景綱が城主になり、慶長七年(1602年)片倉景綱が白石城に移ると、伊達成実が城主になり、亘理城を改修した。
一国一城令の後は亘理要害と言われ、幕末まで亘理伊達氏が城代として亘理郡と宇多郡の一部を治めた。
明治元年(1868年)戊辰戦争に敗れた仙台藩の降伏式が行われ、明治三年(1870年)の北海道移住に伴い建物などは払い下げられた。