毛呂氏館 (もろしやかた)
最寄地 埼玉県入間郡毛呂山町小田谷695 2015.1.10 2016.11.19
毛呂氏館 (もろしやかた)
最寄地 埼玉県入間郡毛呂山町小田谷695 2015.1.10 2016.11.19
長栄寺山門
長栄寺の植え込みにある毛呂顯季館跡の碑
毛呂氏の供養塔
毛呂氏館跡・土塁・標識
背後の空堀
毛呂氏館跡(地図)
【遺構★★☆☆☆】
【感想】 長栄寺裏山に、削平した館跡が杉林の中にあり、虎口横の土塁が残っている。碑が無ければ、それと分からない館跡ある。空堀は、草木を手入れすれば見栄えすると思われる。
毛呂顯季の時、館跡に長栄寺を建てられている。北1㎞に山根城がある。
【案内】 県道30号線(旧道)「鎌北湖入口」交差点の北80mより細い道を左折し、約350m行った「長栄寺」(表記番地)に駐車場が用意されている[マップコード91 352 664*42] 。
山門を潜って、左の山茶花の横に「毛呂顯季館跡」の碑が建てられている。
裏山にゆく途中小屋掛けされた「毛呂氏の供養塔」があり、その北の石尊山登山道入口の東に土塁、曲輪があり「毛呂氏館跡」の標識がある。その西、尾根を切る空堀が残っている。主曲輪の東の下段にも曲輪がある。
【歴史】 毛呂氏の祖・季光(すえみつ)は治承四年(1180年)源頼朝の挙兵以来その側近として仕え、毛呂郷地頭職の外、豊後の国守なども歴任した。
頼朝の死後に起きた重臣間の争いを避け、職を辞し毛呂郷に帰ったと云われている。その子孫は代々毛呂郷の地頭職として、領地は越生郷から比企郡の一部に及び、毛呂城も次第に整備されていった。
大永四年(1524年)上杉憲房と上杉朝興の両上杉氏が北条氏綱配下の毛呂顕繁が守る毛呂山城を攻撃した。顕繁のあと、土佐守顕季、土佐守秋重と続き、北条氏に属して各地を転戦した。
大永五年(1525年)毛呂土佐守顯季の時、館跡に長栄寺が開山している。
戦国末期、毛呂秋重は小田原北条氏に従い、武蔵・相模各地で戦った。天正十八年(1590年)豊富秀吉の小田原征伐の際、秋重以下一門は小田原の支城八王子城の守備に任じられた。
四月から攻防が始まり、六月には前田・上杉連合軍の強襲を受け、ついに落城し毛呂氏一門の多くが討死した。
やがて小田原城も開城となり、四百余年に亘った毛呂氏は滅び、残された妻子は他村に移るやむなきに至った。