清水城 (しみずじょう) (県の史跡)
最寄地 山形県最上郡大蔵村清水番外3 2015.6.13
清水城 (しみずじょう) (県の史跡)
最寄地 山形県最上郡大蔵村清水番外3 2015.6.13
登城ルート(緑線は車道)
本丸南側の内堀
北側の内堀
本丸・標柱
二の丸跡
二の丸南の大手門跡・城跡碑・外堀
外堀東側
清水城 本丸跡(地図)
【遺構★★★★☆】
【案内・感想】 国道458号線本合海バイパスとの交差点より県道20号線を西へ750m行くと、「清水城址入口」の看板がある。大きく左折し150mほど行くと内堀の標識、内堀がある[マップコード 221 102 434*53](地図)。
北に谷を利用した2条目の堀があり、虎口に本丸跡標柱が建てられている。広い本丸の北東に由来板、四阿が建てられ、最上川を見下ろせる。
内堀より南の二の丸は水田となり、120m南に大手門跡がある。東西に高い土塁と深い外空堀がある。大手門の南に「史蹟清水城址」の剣形石碑、説明板が建てられている。その南に駐車場が設置されている。
清水城は最上川左岸に突き出た段丘とその周りの深い谷とからなる天然の要害である。本丸は東西約65m、南北約83mで内堀の南に東西約94m南北約77mの二の丸のある連郭式の城であった。
平成二十三年(2011年)12月27日、山形県の史跡に指定された。
【歴史】 文明八年(1474年)山形城主最上氏二代直家は北進策と最上川舟運統制の一環として、直家の六男成沢城主兼義の子(斯波兼頼のひ孫)成沢満久を、清水に配した。
初め大蔵村新田(現白須賀)に館を築いた。その2年後、文明十年(1476年)最上川を見下ろす高台に清水城を築城した。
以後、清水氏を名乗り、清水氏代々が居住し武藤氏、小野寺氏との戦乱の最前線として、また、最上地方南部の領国経営の中心として発展した。
清水氏五代義高が、本合海(現新庄市本合海)の戦いで武藤義増の軍勢と戦って討ち死にし、その跡を六代清水義氏が継いだ。
義氏には男子がなく、娘が婿養子を迎えるはずであったが、最上義光(よしあき)の三男義親を養子として迎え、七代清水義親となった。
義氏の二十歳の娘・清水姫は、正妻と死別していた義光の側室として嫁いだ。なお、大蔵村の地名は、清水義親が大蔵大輔であったことに由来する。しかし、清水義親は清水氏の養子となる以前に、豊富家に近習として、豊富秀頼に仕えていた。
徳川家康の近習で最上宗家を継いだ異母兄・家親に代わって義親を山形城主に擁立しようとする動きもあり、最上家は、密書により徳川家康ら東軍諸将から清水義親と豊臣家との内通を疑われてしまった。
慶長十八年(1613年)、徳川家康と豊臣秀頼との対立が決定的になると、最上義光の死後、その家督を継いだ異母兄の最上家親は、疑いを晴らすために弟である清水義親の追討を決断し、翌慶長十九年(1614年)清水城を急襲し落城させた。
清水義親は、十三歳であった嫡子義継ともども福沢で切腹させられ、清水家は滅亡し、清水城は廃城となった。
元和八年(1622年)最上氏の改易に伴い清水城は破却された。