鱒沢館 (ますざわやかた)
最寄地 岩手県遠野市宮守町上鱒沢13地割77 2016.6.5
鱒沢館 (ますざわやかた)
最寄地 岩手県遠野市宮守町上鱒沢13地割77 2016.6.5
登城ルート
長泉寺・説明板
八坂神社
西側下段の空堀
二重空堀
館神社
北側尾根の二重堀切
鱒沢館跡(地図)
【遺構★★★☆☆ 比高60m】
【案内・感想】 国道263号線「釜石街道」より北に釜石線踏切を越えて500mほど行くと長泉寺(表記番地)があり、道路反対側に駐車場が用意されている[マップコード645 532 373*22]。説明板が建てられている。
本堂渡り廊下を潜り、北東に登る。登り道にどういう訳か、木枝が積まれ行く手を塞いでいた。右に八坂神社を望みつつ、直登すると二重空堀(竪堀)がよく残っている。
更に登ると、平坦地が数段あり、東端からタラの木を避けながら上り詰めると、崩れかかった館神を祀った社があり、背後に土塁がある。その背後に、先ほどの空堀から続いている深い堀切がある。
遺構はよく残っているが、標識もなく放置された状態で登るのに苦労させられた。
【歴史】 築城年代は不明だが、室町時代から戦国時代の阿曽沼氏の一族鱒沢氏の本拠である。
「阿曽沼氏略系」によると、遠野横田城城主阿曽沼光綱の次男(鱒沢)守綱が遠野保のうち鱒沢と小友村の半分を領知し、上町に館を築いたことに始まるといわれている。
鱒沢は遠野と北上川流域、または三陸と結ぶ交通の要所であり、三男守儀も隣郷綾織の宇夫方氏を継いでおり、一族を、五輪峠を挟んだ江刺と遠野とを結ぶ要衝の地に配した。
天正十八年(1590年)、小田原不参によって阿曽沼氏は領主権を没収され南部氏配下となった。
天正二十年(1592年)、「諸城破却書上」には「閉伊郡之内 増沢 山城 浅沼 忠次郎 持分」とあり、破却はまぬがれた。
慶長五年(1600年)、鱒沢佐馬助広勝らは南部氏と結んで、阿曽沼一族内訌によって主家阿曽沼広長に叛逆し、気仙方向に追放したが、広勝は遠野奪還を企てて来攻した阿曽沼広長の軍勢との戦いで討死した。
南部家の家臣として遠野の所領を安堵された鱒沢氏も、広勝の子・忠右衛門は謀反の疑いによって誅殺されて鱒沢家は滅んだ。