腰越城 (こしごえじょう)
所在地 埼玉県比企郡小川町腰越 2015.1.21
腰越城 (こしごえじょう)
所在地 埼玉県比企郡小川町腰越 2015.1.21
登城ルート
北尾根の2重堀切
二の郭
本郭・ 説明板・城跡碑
説明板・城跡碑
横堀・土塁
腰越城 本郭跡(地図)
【遺構★★★☆☆ 比高100m】
【案内・感想】 「総合福祉センターパトリアおがわ」(小川町腰越618)の東の道を西に約200m行き、県道11号線を30m西に行くと、県道に面して「腰越城跡入口」の標識と看板が建てられている[マップコード91 763 075*80](地図)。
民家の間の通路を50mほど行くと、「腰越城跡榎戸口」の入口がある。そこより約400登ると尾根に出、二重の堀切がある。西に登ると二の丸跡があり、本郭登り口付近に石積が残る。
比高約100mの山頂に本郭があり、説明板、城跡碑が建てられている。二の丸の西に下ると、西の曲輪、帯曲輪が大小17ヶ所あり横堀・土塁、竪堀が残っている。埼玉県の史跡に指定されている。
【歴史】 腰越城は、松山城主上田氏の家臣で安戸を本拠とし、永禄五年(1562年)に荒川沿いの赤浜の合戦で討死した山田伊賀守直定の居城と伝えられている。
大河原谷にある浄蓮寺は上田氏の菩提寺であり、腰越城から青山城、その先の小倉城、菅谷城(館)、青鳥城などを経由して上田氏の居城松山城へとつながるネットワークが形成されていたと考えられる。
上田氏の出自は不明だが、領地の変動が進んでいた応永二十三年(1416年)の上杉禅秀の乱前後には、すでに当地方に進出していた可能性がある。
その後、扇谷上杉氏の重臣として、文明八年(1476年)からの長尾景春の乱などで活躍した。
後北条氏の勢力が及んだ天文十五年(1546年)頃にはその配下となり、上杉輝虎(謙信)との一進一退の攻防の末に、松山城主としての地位を固めた。
豊臣秀吉の重臣・前田利家に攻められ落城する天正十八年(1590年)までの間は、安定した領地支配を行っていたと考えられる。腰越城も松山城の落城と共に廃城となった。『小川町教育委員会説明板』より。