久川城 (ひさかわじょう) (県の史跡)
所在地 福島県南会津町青柳久川 2014.4.16
久川城 (ひさかわじょう) (県の史跡)
所在地 福島県南会津町青柳久川 2014.4.16
登城ルート
青柳七曲り登城口・城跡碑
本丸・土塁
本丸・久川城址碑
竪堀
本丸二の丸間の空堀
二の丸跡
久川城 本丸跡(地図)
【遺構★★★★☆ 比高70m】
【案内・感想】 伊南川の西の県道351号線に面した独立丘陵に久川城跡があり、麓からの比高差は70m、東西110m、南北430mの広い面積を持っている。
青柳七曲り登城口[マップコード510 363 252*47](地図)と、南約300mに小塩七曲り登城口がある。
青柳口を登ると、「桝形門跡」があり、北側の二の丸跡に着く。空堀、土塁が良く保存され虎口の西に本丸がある。
本丸には「久川城址」碑があり、稲荷大明神が祀られている。西の尾根に遊歩道がありその西に金山沢が流れている。 南に隣接する堂平地区は侍屋敷跡と推測されている。福島県の史跡に指定されている。
【歴史】 久川城のある会津郡伊南郷(伊南川流域一帯)は文治五年(1189年)の奥州合戦の戦功によって下野国住人の河原田盛光に与えられ、以来河原田氏が治めていた。
天文十二年(1543年)頃に蘆名盛氏に攻められ、このころから河原田氏は蘆名氏に臣従したものと思われる。
天正十七年(1589年)、摺上原の戦いで蘆名氏が滅亡し、伊達政宗が黒川城へ入ったが、当時の河原田氏当主・河原田盛次は政宗への臣従を拒否した。
政宗は家臣の柴田但馬や降伏した鴫山城主・長沢盛秀に伊南郷を攻めさせた。盛次は戦闘に備えて新たに久川城を築き、そこに立て籠もって伊達勢を迎え討った。
伊達勢は城を攻撃したが、結局攻め落とすことはできずに撤退した。しかし盛次は翌年の秀吉の小田原征伐に参陣しなかったため、その後の奥州仕置によって領地は没収されてしまった。
その後、会津は蒲生氏、上杉氏、そして再び蒲生氏が入部し、この再蒲生時代に久川城は現在残されている縄張りの城に改築された。
その後、慶長十六年(1611年)に廃城となった。