足利基氏館 (あしかがもとうじやかた) (足利基氏の塁)
最寄地 埼玉県東松山市大字岩殿1042 2020.7.19
足利基氏館 (あしかがもとうじやかた) (足利基氏の塁)
最寄地 埼玉県東松山市大字岩殿1042 2020.7.19
入口の標柱
土塁
空堀
足利基氏館跡(地図)
【遺構★★☆☆☆】
【感想】 東松山市大字岩殿のゴルフ場南側斜面にある。標柱の右側の低地が堀跡で、北側に空堀が残り東側は沼状となっている。空堀の北はゴルフ場で、立ち入り禁止となっている。
塁跡は土塁が残っているものの緩斜面で鬱蒼としており、あまりはっきりしなかった。
【案内】 市道東側入口に道路標識が建てられているが、引込道路はすれ違いも出来ず駐車出来ないため、西側にある「岩殿会館」(表記番地)に駐車した方が良い[マップコード14 300 211*62]。
弁天沼前を通って東へ約250m歩くと、民家脇に「足利基氏の塁跡」の標柱が建てられている。
【歴史】 足利基氏は暦応三年(1340年)足利尊氏の次男として生まれた。
足利将軍家の内紛から発展した観応の擾乱が起こると、父尊氏は鎌倉にいた嫡男・義詮に次期将軍として政務を担当させるため京都へ呼び戻し、正平四年/貞和五年(1349年)に次男・基氏を鎌倉公方として下向させ、鎌倉府として機能させた。
基氏は約6年間もの長期間、南朝方との戦闘のため鎌倉を離れて入間川沿いに在陣したことから「入間川殿」と呼ばれ、その居館は入間川御陣と称された。
貞治二年・天平十八年(1363年)足利基氏は反乱を起こした下野の芳賀高貞を「岩殿山合戦」で撃ち敗ったが、この時、地元豪族が築いた館を陣地として利用したと推定されている。