岩櫃城 (いわびつじょう)
所在地 群馬県吾妻郡東吾妻町原町 2015.1.14
岩櫃城 (いわびつじょう)
所在地 群馬県吾妻郡東吾妻町原町 2015.1.14
登城ルート
登り口・休憩所
中城跡
堀切
本丸・四阿
本丸址碑・由来説明板
岩櫃城本丸跡(地図)
【遺構★★★☆☆ 比高80m】
【感想】 岩櫃山(標高802.8m)の東尾根の先端に位置し、面積は136haと大規模であり、真田氏支配の城として武田領内の三堅城と称された。本丸の東に空堀、竪堀がよく残っている。
【案内】 県道28号線「大戸口」交差点北東約80mより北へ国道145号線の下を道なりに約640m行くと不動滝への分岐があり、直進して1.5㎞途中の標識に従って行くと「若櫃山登山口休憩所」駐車場に至る[マップコード295 532 126*53](地図)。
登り口に「岩櫃城跡」の石碑、由来説明板が建てられている。その西60mより南へ150ほど登ると、空堀があり「中城跡」の斜面がある。更に150mほど行くと虎口、「二の丸」がある。その西に堀切があり、屈折して竪堀に繋がっている。
その上に帯曲輪があり上段に本丸がある。比高約80mの本丸には北に土塁が残り、四阿、説明板、「岩櫃城本丸址」の大きな木碑が建てられている。帯曲輪は発掘調査中であった。
【歴史】 建久年間(1190~99年)吾妻太郎助亮が初代城主と云われる。
二代吾妻四郎助光は承久三年(1221年)の承久の乱で戦死した。吾妻氏の一族下河辺行家が下総から来て吾妻氏を継承した。嫡男吾妻庄司副行重は助光の娘を娶り、その嫡男吾妻太郎行盛は松井田城主斉藤梢基の姉を娶った。
貞和五年(1349年)碓井の里見義時に敗れ自刃して果てた。行盛の長子斉藤憲行は伯父の斉藤梢基の養子となり延文二年(1357年)里見氏を討って岩櫃城を奪回し斉藤氏六代の祖となった。
別の史料では応永十二年(1405年)斉藤憲行がこの地方に入部して築城したとされている(『群馬新百科事典』)。
地元の旧記では吾妻行盛‐斉藤憲行・二代行禅・三代行弘・四代行基・五代行連・六代憲広(基国)と系譜を伝え、行禅のときに重臣秋間氏の反対を押し切って柳沢城を家臣で娘婿の柳沢安吉に与えたが、行弘のときに柳沢安吉は反乱を起こし鎮圧されたという(『原町誌』)。
六代斉藤憲広は上杉氏に属して勢力を拡大したが、永禄六年(1563年)真田勢の攻勢を受け、家臣の内応もあって落城、憲行は越後に逃走した。真田幸隆が城主となった。
斉藤氏は憲行の末子・城虎丸が近隣の嵩山城に籠っていたが、永禄八年(1565年)に落城、斉藤氏は滅亡した。同年斉藤氏に代わって、武田氏配下の真田氏により治められた。幸隆の長子信綱は天正三年(1575年)長篠の戦いで戦死した。信綱の弟真田安房守昌幸はそのあとを継ぎ天下の知将として知られる。
武田勝頼が織田信長によって新府城を追われた(甲州征伐)ときに真田昌幸は勝頼に逃れてくるよう奨めたが叶わず武田氏は滅亡した。その後も真田氏は生き延び豊臣秀吉に属し大名として存続した。昌幸の長子伊豆守信之は、天正十八年(1590年)初代沼田城主となり岩櫃城を併有した。
関ヶ原の戦いの後西軍に付いた昌幸は次男幸村と共に紀州九度山に流され、慶長十年(1605年)没した。関ヶ原の戦いで徳川家康に付いた真田信之は德川氏の配下となった。真田氏は上田城を本拠にし、慶長十九年(1614年)一国一城令により廃城となった。