新屋城 (あらやじょう)
所在地 青森県平川市栄館171 2015.7.5
新屋城 (あらやじょう)
所在地 青森県平川市栄館171 2015.7.5
橋・空堀
空堀
空堀
新屋八幡宮
新屋城跡(地図)
【遺構★★☆☆☆】
【案内・感想】 東北自動車道西側の新屋集落のほぼ全体が城址であり、東西1km、南北300m程で、東端の本郭(大館)と外郭(小館、東館、西舘、町屋敷)で構成されている。新屋八幡宮(表記番地)敷地は南端にあり、南側に空堀が残っている[マップコード71 027 855*31](地図)。
郭同士が引座川で区切られ、その堀を上り下りしなければならず、その城址に位置する新屋集落は、津軽平野に位置するにも拘らず、坂が多いことで有名である。新屋四十八坂と呼ばれ、民謡にも唄われた。共同墓地の一角の寺館には、かつて寺(金谷寺、永泉寺?)があったといわれる。
城址西南の、広船川沿いの林檎園に、城主の墓と伝わる五輪塔がある。 北方上流に十津川、金井川、下流に引座川があり、巨大な外堀となっている。
東方にあった結名川は、水田整備で姿を消した。南方には幅の広い堀があり、西方には、広船川が引座川に合流する。西端の郭と本郭間にも幅の広い堀がある。
【歴史】 築城年は不明。鎌倉時代に新屋氏によって築城された。新屋氏は清和源氏南部氏流七戸氏の庶流である。
戦国時代の城主は、新屋源次郎で、1900石の領主であった。大光寺城南部氏の支配下にあった。隣村である尾崎村尾崎城主の尾崎氏と同盟を結んでいた。
藩史によると天正四年(1576年)、もしくは天正二年(一統志)、十一年(津軽年代記)に尾崎城主尾崎喜蔵と共に大浦為信家臣となった。
一説には、大光寺城主滝本重行の攻撃により、新屋城が落城し、浪岡城に逃れた後、津軽家(大浦氏)家臣となったという。新屋城には、落城後も弘前城完成までは代官所が置かれていた。
津軽家家臣となった新屋氏は津軽為信より、百石を与えられ弘前藩士となった。
新屋源次郎より十三代目の新屋茂樹は、近衛文麿の秘書を務め、茂樹の死後、新屋家より新屋八幡宮(新屋城址にある)に甲冑、太刀、陣羽織、陣笠などが奉納されている。『ウイキペデイア』より。