水海城 (みずうみじょう)
所在地 茨城県古河市水海 2015.1.7
水海城 (みずうみじょう)
所在地 茨城県古河市水海 2015.1.7
古城跡推定地
新城推定値 (神明神社西側より)
神明神社
神明神社北東側の土塁残欠
簗田氏一族の墓石
水海古城 推定地(地図)
【遺構★☆☆☆☆】
【案内・感想】 国道4号バイパスの利根川橋梁の北西に「古城」推定地がある。遺構や標識等はなく、田圃と廃屋があるのみである[マップコード45 466 255*56]。
新城推定地は「神明神社」(古河市水海)と水海小学校の間とされている(地図)。こちらも住宅、田畑のみで、神社北側が若干高い。遺構は無いといわれるが水海小学校との間の道路脇に土塁の残欠のような藪が見られる(地図)。
北方の安禅寺(古河市磯部462)には簗田氏一族の墓石が本堂横に安置されている。安禅寺は寛正四年(1463年)水海城主・簗田河内守持助の創建で、簗田氏の菩提寺でもある。
【発掘調査】 平成二~三年(1990~91年)、および平成四年(1992年)の二次にわたる発掘調査が行われ、後北条様式の城郭跡が確認されたが、遺構標識等は無い。
【歴史】 南北朝時代末期に、鎌倉公方家臣・梁田氏が水海に入り、居城を設けたと考えられている。 『下総旧事考』(清宮秀堅)によれば、築城時期は文明年間(1469~87年)、築城者は梁田政助(関宿城3代成助の弟)とされるが、根拠は明示されておらず、定かではない。
享徳四年(1455年)、第五代公方・足利成氏(しげうじ)が古河に移り古河公方になると、簗田氏はその重臣となり、本拠を関宿城に移したが、水海城も引き続き重要な拠点とされた。
水海城として、新旧二つの城があったと考えられている。新しい城は、天正二年(1574年)、嫡流・関宿簗田氏晴助・持助(同名の河内守持助の玄孫)父子が関宿から水海には追放された後に築城した。
古い城は、水海にとどまっていた傍流・水海簗田氏の居城と考えられている。天正十八年(1590年)簗田貞助が城主の時、豊富秀吉の小田原征伐により後北条氏が滅びた後、廃城となった。
その後、簗田貞助は徳川家康に仕え慶長二十年(1615年)「大坂夏の陣」に子の助吉とともに出陣し、討ち死にした。