月居城 (つきおれじょう) (袋田城)
最寄地 茨城県久慈郡大子町袋田1097 2014.4.10
月居城 (つきおれじょう) (袋田城)
最寄地 茨城県久慈郡大子町袋田1097 2014.4.10
登城ルート
登り口・案内板
袋田滝への分岐
月居観音堂
主郭・城跡碑
南曲輪
月居城跡(地図)
【遺構★★★☆☆ 比高190m】
【案内・感想】 国道461号新月居トンネルの上に位置する旧道の月居トンネル西より約700m北西に下った地点に登山口、駐車スペース・公衆トイレがある[マップコード379 603 492*13](地図)。
標高404m比高190mの月居(つきおれ)山頂上目指して東に行き、350mほど行くと分岐点に「袋田の滝」「月居観音堂」の標識があり「月居観音堂」方面へ行く。
月居観音堂前より南に比高70mの急な登山道を登る。片栗の花が満開であった。備え付けのチェーン、ロープを伝って岩場を登ると城跡碑の建てられている曲輪に着く。
月居山頂上にある曲輪は二段に分れ北の主郭に城跡碑がある。写真の城跡碑は野内氏・月居氏子孫の浄財寄進により昭和58年9月建てられた。城跡からは東方にゴルフ場のある山々が望め、西方には袋田の町並が望める。
【歴史】 築城は応永年間(1394~1424年)といわれ、領主であり常陸守護である佐竹氏の支族北酒出助義の三男定義が築城し袋田氏を名乗って居を構えた。
後に袋田氏が佐竹氏一門の小田野氏を相続することになり、袋田氏はその血脈を伝えながら断絶、主なき月居城は一時廃城となった。
月居城のあった依上保一帯は後に佐竹氏の分家・山入氏の勢力下に入るが、山入一揆の乱の混乱に乗じて陸奥国の国人白河結城氏の侵攻により同地は奪われ40年もの長きにわたり、白河領となった。
その後、永正元年(1504年)に依上保は佐竹氏により奪還され、月居城は再び、佐竹領北方の要衝として再興、佐竹氏庶家の高柿氏らを在番衆として置いた。
その後、月居城は、鎌倉公方の主導権争いに巻き込まれ、佐竹氏の那須出兵に際しては、佐竹氏家臣の石井氏らが篭城して敵の侵攻を防いだ。その後、月居城は佐竹義舜の重臣・野内大膳が城主に任じられ、以来野内氏が四代にわたり、袋田・生瀬一帯を守護し、佐竹氏の奥州攻略の軍役負担と前線基地の役割を果たした。
しかし、慶長7年(1602年)佐竹義宣の秋田転封に伴い城主野内大膳亮忠時父子ともに、これに随行したため、再び主を失った月居城は廃城となり、その後も一国一城令の施行もあって城として再建されることはなかった。
なお、月居城主であった野内氏は秋田転封後に出羽国大館に移封されたが、主家に願い出て旧城の名である月居氏を称するようになったという。
また幕末、麓の月居峠において元治甲子の変(1864年)で、水戸藩天狗党(藤田小四郎・武田耕雲斉率いる1千名)と水戸藩諸生党(家老市川三左衛門率いる2千名)が戦った。天狗党側が敗れ西上の途について、後に敦賀にて処刑された。