金砂城 (かなさじょう) (金砂山城)
最寄地 茨城県常陸太田市上宮河内町1911 2020.6.20
金砂城 (かなさじょう) (金砂山城)
最寄地 茨城県常陸太田市上宮河内町1911 2020.6.20
登城ルート
館跡切岸
館跡・奥に歴史民俗伝承館
西金砂神社鳥居
中腹の西金砂神社
東側展望台
西金砂神社本殿
金砂城跡(地図)
【遺構★★★☆☆ 比高70m】
【感想】 常陸太田市上宮河内町の標高412mの天険の山に築かれており、「頼朝の金砂(かなさ)攻め」で有名な城である。
堀切などは見られないが、断崖絶壁や急斜面が各所にあり、それを利用した山城である。
【案内】 「歴史民俗伝承館」(表記番地)の東に館跡があり、駐車場が用意されている[マップコード379 249 229*60](地図)。
館跡の台の前に説明板が建てられている。北に石段があり、中腹に西金砂神社がある。
更に急な石段を登った頂上に本殿がある。
【歴史】 治承四年(1180年)十月、平家との富士川の戦いに勝利した源頼朝は敗走する平家を追撃すべしと命じるが、上総広常、千葉常胤、三浦義澄らが、まず佐竹氏を討つべきと主張した。
十一月四日、頼朝は常陸国府に入り、軍議が開かれた。
まず、上総広常が、縁者である佐竹家の嫡男・佐竹義政を矢立橋に誘い出し誅殺した。
五日、金砂城に立て籠もった次男の佐竹秀義らに対して総攻撃が仕掛けられ、熊谷直実、平山季重が真っ先に城を登った。佐竹氏当主隆義は在京中で不在であったものの、金砂城が断崖に位置する難攻不落の城郭であり、佐竹氏の守りは強固であると見た頼朝は、広常の献策により、金砂城には入城していなかった秀義の叔父佐竹義季を味方につくよう勧誘する。義季は頼朝軍に加わって金砂城を攻撃した。城のつくりに詳しい義季の案内で金砂城は攻め落とされた。
佐竹義李は御家人に列せられ、佐竹秀義の所領が頼朝の家人たちに与えられた。
南北朝時代、西金砂山は北朝方が籠城し、南朝方と激戦が繰り広げられた。
応永十年(1503年)から100年余にわたって支族山入氏との内紛の際、文亀二年(1502年)の金砂山城の戦いで、山入氏義により佐竹義舜(よしきよ)は自害寸前まで追い詰められたが、天候の悪化を味方につけ逆襲し、なんとか滅亡を逃れることができた。
佐竹義舜が籠城して死力を尽くした地であり、佐竹家初代昌義以降、佐竹氏開運の山として厚い崇拝を受けた。