鐘撞山城 (かねつきやまじょう) (油井城)
所在地 埼玉県加須市油井ヶ島927 2015.12.23
鐘撞山城 (かねつきやまじょう) (油井城)
所在地 埼玉県加須市油井ヶ島927 2015.12.23
外郭・説明板
説明板
鐘撞山標識・堀
鐘撞山之記
内郭西側堀
内郭
鐘撞山城 内郭跡(地図)
【遺構★★★☆☆】
【案内・感想】 鐘撞山は南東に沼を控えた平城で要害の地であった。約26,400㎡の面積を有し土塁・空堀・水堀の一部が現存している。西方約2kmに騎西城跡がある。
県道149号線より南東に約300m行った北東角に「加須市指定史跡 鐘撞山」の碑があり空堀・土塁がある[マップコード14 658 397*43]。
北側空堀に沿って100mほど行くと、外郭に説明板が建てられている。さらに空き地を100mほど右に行くと、塚の上に「鐘撞山之記」石碑(地図)が建てられている。
戻って空堀の木の橋を渡ると、東西約115m南北約75mの方形の内郭に民家(表記番地)があり廃屋と化している。東側、北側、西側の3方を土塁・空堀で囲まれている。南は住宅地と万年塀で区画され、立ち入りはできない。
【歴史】 江戸時代の地誌『新編武蔵風土記稿』に、「相伝ふ、猪俣小平太則綱が城蹟と云、鐘つき山と呼ぶ、今は山もなく、陸田となりて、城跡のさまは見えず」とあり、築城した人物や年代等は明らかではない。
永禄六年(1563年)上杉謙信が松山城救援のため出陣したが及ばず、転じて北条方の騎西城を攻めた時、鐘撞山も同時に攻められた。
攻撃が急だったので、館の兵はしきりに鐘を鳴らし騎西城に救いを求めたが、騎西城も謙信の本隊に攻められていたので鐘撞山を救援する事が出来ず、館兵は甲冑兵器を丘に埋め逃れたという(鐘撞山之記)。
後年、塚から矢の根・鉄砲の玉・大身槍・陣鍋が掘り出された。『加須市教育委員会説明板』より。