橋倉城 (はしくらじょう)
所在地 埼玉県比企郡ときがわ町大野 2023. 8.22
橋倉城 (はしくらじょう)
所在地 埼玉県比企郡ときがわ町大野 2023. 8.22
登城ルート(緑線は車道)
長者平
石碑・祠
長者ヶ池方面
長者ヶ池(水場)
南東の主郭・石積み
南東の郭
橋倉城跡(地図)
【遺構★★☆☆☆】
【感想】 ときがわ町大野の広大な緩斜面に「堂平スカイパーク練習場」となっている。訪れた当日も、5、6台のパラグライダーが並べられ、練習開始前であった。
かっては広大な畑として利用されたと思われ、北側の水場も豊富で石垣もあり生活の跡が窺える。
城跡は南東にあり40×50m程の広さがあり、北西側の沢に面して石積みが見られ、南東側に切岸が見られた。舗装道が山側と隔てる堀と考えられる。
西側山頂には大野弾正の後裔の手になる石碑が建てられている。
【案内】 県道172号線より町道に入り、「木の村キャンプ場」北を通って約2.5km行き、「高篠峠方面」に向かう。約950m行くと「堂平スカイパーク練習場」入口に着く[マップコード91 547 223*66](地図)。
一旦下って登ると、「堂平スカイパーク練習場」の西端で、長者平と呼ばれる広い緩斜面が一望できる。
西端より比高40m程登ると、山頂に祠、石碑が建てられている。石碑には「落人のわが祖住みける橋倉山 古き泉にわさび水漬けり その」と記され、裏面には「昭和五十一年彼岸 森田その建之 八十二才」と記されている。落人とは松山城落城後、帰農した祖先の事か?
中央の沢に沿って北に行く建物右に長者ヶ池と呼ばれる豊富な水場がある。ワサビ田として利用されたのか?
道路を南東に行くと、右側に沢があり、北側に石積みの見られる城跡があり、東側に切岸が残っている。
【歴史】 後北条氏の重臣であった松山城主上田氏に仕えた森田行家は、高篠峠に通じる街道を抑えるため大野の地に城を築き、大野弾正を称したといわれる。
天正十八年(1590年)豊臣秀吉の小田原征伐の際、松山城が落城すると、森田氏は帰農したといわれる。