植栗城 (うえぐりじょう)
最寄地 群馬県吾妻郡東吾妻町植栗1355 2019.1.23
植栗城 (うえぐりじょう)
最寄地 群馬県吾妻郡東吾妻町植栗1355 2019.1.23
空堀・城址標柱・説明板
説明板
本丸東側
帯郭・奥に空堀
植栗安芸守の石碑・標柱
植栗城跡(地図)
【遺構★★★☆☆】
【感想】 吾妻川の右岸に築かれた崖端城で、本丸は東西約60m南北約30mで畑となっており、西に空堀がよく残っている。南側に帯郭があり、その南の砂利道、用水路が堀跡と思われる。
南西約6kmにある岩櫃山を遠望して歩いていると、保存活動をされている民家の方が出てこられ、史料パンフレットを戴き、説明してもらいました(感謝)。
【案内】 国道353号線「竜ヶ鼻橋」交差点より県道232号線を南に吾妻川を渡って約600m行き、左折東に450mほど行くと、送電線鉄塔が見え、表記番地の東に城跡がある。
空堀があり、土塁上に説明板と城趾標柱が建てられている。
本丸東側は低くなっており、民家を挟んだ東側に植栗安芸守の碑が建てられている(地図)。
【歴史】 鎌倉時代、吾妻氏の一族が当地に来往し植栗氏を名乗ったという。
城主として植栗河内守元吉(岩櫃城主吾妻太郎の一族)の名がある。
天文十五年(1546年)越中守護代神保氏は岩本から来て植栗城主となり、植栗氏を名乗った。永禄七年(1564年)頃、植栗安芸守は子の河内守(元吉の曾孫)に譲り、間もなく死去した。
天正十七年(1589年)、北条勢は大軍で沼田・白井・大戸3方面から吾妻に侵攻した。岩櫃城代矢沢頼綱は、祢津、鎌原、池田、浦野、植栗元信の諸将と協議し、迎撃態勢を整えた。しかし北条勢は秀吉勢の京都進発の報に、急遽陣を払って退却した。(上記の植栗元信は河内守の事と考えられる)
石碑は植栗安芸守の没後130年ほど経た、元禄十一年(1698年)に建立された。