野口城 (のぐちじょう) (川野辺城) (市の史跡)
所在地 茨城県常陸大宮市野口 2015.2.14
野口城 (のぐちじょう) (川野辺城) (市の史跡)
所在地 茨城県常陸大宮市野口 2015.2.14
登城ルート
虎口・標柱・説明板
二郭
主郭・土塁
内側の空堀
外側の空堀
野口城 主郭跡(地図)
【遺構★★★☆☆】
【感想】 那珂川左岸の、比高の低い丘陵先端にあり、平城に近い。
一部畑となっている2郭跡の先の地続きの竹林の中に主郭があり、北に土塁がある。バラ線に囲まれ椎茸栽培の榾木が散乱している。
北に二重の空堀が良く残り、特に最北の空堀は高低差5m以上と深い。主郭と2郭を合わせた城跡は東西約100m南北約150mで、東は急斜面となっている。
【案内】 国道123号線「野口」交差点より県道12号線を東へ約500m行き、左折約200m行くと入り口があり、「野口城跡」の案内標識がある[マップコード188 775 555*24](地図)。駐車余地は少ない。
坂道を登ると虎口があり、「野口城跡」の碑、説明板が建てられている。
平成十五年(2003年)9月27日、常陸大宮市の史跡に指定された。
【歴史】 正暦二年(991年)鎮守府将軍藤原秀郷の藤原通直により築城され、川野辺・那賀の二郷を領し、川野辺太夫と称した。
その後、川野辺氏の城館として、南北朝期まで続いた。南北朝時代に入り、川野辺資鎮は川野辺氏の庶家ながら有力な武士として台頭した瓜連城(うりづらじょう)主の那珂通辰に従い、南朝方として活躍し佐竹氏に対抗した。
那珂通辰が敗死すると、川野辺氏も衰退し、穴技の地に退き、野口城は佐竹氏に明け渡された。
応永元年(1394年)太田より佐竹景義が城主となり、野口但馬守と称した。
天文九年(1540年)、野口直之允(幹成)が常陸守護・佐竹義篤に叛き戦死、野口四天王は佐竹義篤に降り、廃城となった。『常陸大宮市教育委員会説明板』より。