伊治城 (いじじょう/これはるじょう) (国の史跡)
最寄地 宮城県栗原市築館城生野地蔵堂77 2016.6.4 8.5
伊治城 (いじじょう/これはるじょう) (国の史跡)
最寄地 宮城県栗原市築館城生野地蔵堂77 2016.6.4 8.5
説明板・城跡
照明寺・説明板
土塁及び大溝跡の標柱
土塁及び大溝跡
伊治城跡(地図)
【遺構★★☆☆☆】
【案内・感想】 国道4号線に面した表記番地の横に「伊治城跡」の説明板が建てられている[マップコード319 050 360*63] (地図)。
また、西に400mほど行った「照明禅寺」(築館字城生野要害28)に「伊治城跡とその出土品」と題された説明板が建てられている。
国道4号線の北約150mを左折、100m先を右折して北に400mほど行った「築館出土文化財管理センター」(築館城生野大堀3)の北に土塁、大溝があり「伊治城外郭北辺土塁及び大溝跡」の標柱が建てられている(地図)。
平成十五年(2003年)8月27日、国の史跡に指定された。
【発掘調査】 昭和五十二年(1977年)度から断続的に発掘調査が行われた結果、城生野大堀の台地北端では大溝と土塁が、唐崎・地蔵堂地区では「政庁」や官衙ブロック(役所の実務を行う場所)が検出された。
政庁は東西約55m南北約60mの広がりを持ち、築地塀に囲まれた内部には、正殿・脇殿・後殿・前殿・南門などの建物が記されている。
また、伊治公呰麻呂(これはるきみのあざまろ)の乱の際の火災の跡も確認されている。
【歴史】 奈良時代後半の宮城県北部は、中央政府が積極的に進めていた征夷政策(蝦夷(えみし)を治める政策)に対して、蝦夷の抵抗が高まり非常に不安定な地域であった。
伊治城はこのような情勢の中で、栗原郡を中心とした宮城県北部における征夷政策の拠点にするため、神護景雲元年(767年)に設置された。
続日本紀や日本後紀には、延暦十五年(796年)までの伊治城に係わる記事が見られ、なかでも「伊治公呰麻呂(これはるきみのあざまろ)の乱」は当時の政府を震撼させる事件として著名である。
この地域の蝦夷の大領であった伊治公呰麻呂が、宝亀十一年(780年)に按察使紀広純と牡鹿郡の大領道嶋大楯を伊治城で殺害し、更に多賀城を攻撃し放火するというもので、律令政府と蝦夷の長期にわたる戦争の発端となった。『栗原市教育委員会説明板』より抜粋。