村田城 (むらたじょう)
所在地 宮城県柴田郡村田町村田北塩内41 2015.6.14 2016.6.4
村田城 (むらたじょう)
所在地 宮城県柴田郡村田町村田北塩内41 2015.6.14 2016.6.4
登城ルート(緑線は車道)
堀切道
南側横堀・土塁
村田城跡標識
説明板
本丸跡
北東曲輪
願勝寺 移築大手門
村田城 本丸跡(地図)
【遺構★★★☆☆】
【案内・感想】 東北自動車道「村田」ICの県道14号線に面した「道の駅村田」(表記番地)駐車場が利用できる[マップコード156 701 823*80]。
本丸跡は「村田町城山公園」として整備され、道の駅東側より遊歩道が設けられている。
本丸は東西約130m、南北約80mの広さがあり、西側に展望台があり、その南に大きな横堀がある。
また北西の「乾八幡神社」との間に空堀・堀切が残っている。東から北にかけて切岸が残っている。北東に一段低く長方形の曲輪がある。
南東の一段低い二の丸跡に村田小学校が建てられている。 二の丸を含めた全体の大きさは東西約300m、南北約210mの大きな規模を持つ。
東南東約500mにある願勝寺(村田町村田東102)の山門は、移築された村田城の大手門である。
【歴史】 嘉吉年間(1441~44年)小山九郎業朝が下野国小山郷から移住し、村田氏を名乗り伊達家の家臣となって館を築いたのが始まりとされる。
天正十九年(1591年)九月に伊達政宗の長男兵五郎が、この城で生まれた。兵五郎は後に秀宗と名乗り、慶長十九年(1614年)伊予国宇和島藩主となった。
天正十九年(1591年)十二月頃、村田万好斎の代に領地を没収され、万好斎は桃井郡長井に移された。その後伊達家が直接村田郷を治める御蔵入りとなった。
慶長十八年(1613年)伊達政宗の七男宗高が7才で城主となり、柴田・刈田両郡3万石を所領とした。慶長二十年(1615年)の一国一城令後は要害の下の「所」扱いとなり、本丸には掘立柱程度の建物のみで、領主の居館や政庁は二の丸に置かれた。寛永三年(1626年)政宗と共に京に上った宗高は20歳で天然痘により病死した。
貞享元年(1684年)栗原郡一迫の芝多常春が村田に所替となり以後、芝多氏が182年間治めた。
慶応二年(1866年)芝多常質は加美郡谷地森へ所替えになり、代わって谷地森の領主片平大丞教敬が村田に移った。
明治四年(1871年)廃城令により、城郭は破棄された。大手門は願勝寺に払い下げられ、明治の払い下げの後、茅葺を瓦葺に改められた。大正十一年(1922年)寺と共に現在地に移された。