臼井城 (うすいじょう)
最寄地 千葉県佐倉市臼井634 2014.1.22 2016.11.26
臼井城 (うすいじょう)
最寄地 千葉県佐倉市臼井634 2014.1.22 2016.11.26
登城ルート(緑線は車道)
駐車場・二の丸本丸間の空堀
二の丸入り口の城跡碑・説明板
二の丸跡
本丸西の空堀・土橋
本丸跡・土塁
本丸東側の郭
太田図書の墓
臼井城 本丸跡(地図)
【遺構★★★★☆】
【案内・感想】 国道296号線「中宿」交差点を北に県道64号線を70m程行き、次の信号交差点を左折し、すぐ右折して約200mゆくと、城跡公園の駐車場が用意されている[マップコード27 846 144*87](地図)。
西へ登ると、二の丸の南端に古峯神社・道祖神社が建てられ、少し行くと「臼井城跡」の石碑、看板建てられている。その上が広い芝生の二の丸で空堀、土塁が見て取れる。
東に空堀があり土橋を渡ると土塁の良く残る本丸曲輪である東に印旛沼が見下ろせる。
北に降りてゆくと6代城主臼井興胤が暦応二年(1339年)に建てた円応寺がある。
又、二の丸の西に空堀で隔てて三の丸があり、道路横にひっそりと、文明十一年(1479年)に臼井城を攻めて討死した太田道灌の弟・図書助資忠の墓がある[マップコード27 846 168*60](地図) 。
【歴史】 永久二年(1114年)千葉常兼の三男・臼井六郎常康が初めて臼井の地を治めて以来、16代臼田久胤までの約450年間、城主であった。
享徳の乱の折、文明十年(1478年)十二月十日の境根原合戦で千葉自胤(よりたね)に敗北した千葉孝胤は、臼井教胤(のりたね)の養子となっていた一族の臼井持胤の守る臼井城に籠城し、文明十一年(1479年)七月十五日、太田道灌の率いる上杉方に攻められ、七ヶ月に及ぶ篭城の末、落城した。
弘治三年(1557年)臼井久胤の後見として原胤貞が入り、原氏の支配下となった。
永禄四年(1561年)上杉謙信に呼応した里見側の大多喜城主・正木信茂に攻められ落城した。永禄七年(1564年)原胤貞が奪還した。
永禄九年(1566年)臼井城の戦いで上杉・里見勢に攻められるが、これを退けた。
天正二年(1574年)生実城が里見氏の手に落ち追われた原胤栄(胤貞の子)が臼井城に移り、原氏の本拠とした。
天正十八年(1590年)小田原征伐に際し、原氏が千葉氏と共に滅んだ。豊臣側に接収され、後に酒井家次が封じられた。
文禄三年(1594年)の火災で焼失したが、慶長九年(1604年)酒井家次の高崎移封により廃城となった。