大野城 (おおのじょう)
所在地 千葉県市川市大野町3‐1993 2016.1.3
大野城 (おおのじょう)
所在地 千葉県市川市大野町3‐1993 2016.1.3
説明板
第五中学校・説明板
【遺構★☆☆☆☆】
【案内・感想】 JR武蔵野線「市川大野駅」の南東約500mに位置している。県道9号線より東に入った「市川市立第五中学校」の南側の細い道に面して説明板(地図)が建てられている。
道は狭く、徒歩を勧めたい。その右は下りの階段となっており、高台となっていることが判る。学校敷地が城跡とされるが、遺構は無い。
【発掘調査】 昭和四十四年(1969年)に第五中学校の地域、昭和五十四年(1979年)に第五中学校と大柏小学校の一部を発掘した結果、天慶の頃の将門伝説と結びつける事は無理で、中世戦国時代の城跡ではないかと云われている。『市川市教育委員会説明板』より。
【歴史】 伝承によれば、関東を征服しようとして、天慶の乱を起こした平将門が下総国西南部を鎮圧するため、築かれたとされる。城の北約200mには将門が建立したとされる天満天神宮(大野町3丁目1948)が伝えられるが、戦後に行われた調査によれば実際には中世期の城とされている。
鎌倉時代には日蓮の庇護者としても知られている千葉氏家臣の曾谷教信(そやきょうしん)が大野の地を支配していたとされ、付近には中山法華経寺など日蓮宗寺院が多い。
大野城に拠ったのは、享徳の乱(1454~83年)の過程で、この地域に進出してきた原氏庶流・大野原氏と呼ばれる人々である。近くの本光寺の山号光胤山は、大野原氏の原光胤に由来すると言われている。
その後、大野城付近の支配は原氏からその重臣である小金城の高城氏に移り、遅くても同氏が改易された天正十年(1590年)の小田原征伐までには、廃城になったと考えられている。
現在でも市川市大野町3丁目の「城山」の一帯には、御門(大手門)・殿台・殿内(領主の館)・迎米(米蔵)・馬寄場・一の谷・二の谷(外堀)・根古屋(家臣の居住地)などの中世城址を偲ばせる地名が残っている。