伊佐城 (いさじょう) (県の史跡)
所在地 茨城県筑西市中舘522−1 2014.4.9
伊佐城 (いさじょう) (県の史跡)
所在地 茨城県筑西市中舘522−1 2014.4.9
観音寺・城址碑
曲輪
石川総管の墓
城跡南東側・五行川
伊佐城跡(地図)
【遺構★★☆☆☆】
【案内・感想】 五行川(勤行川)の西の段丘上の「観音寺」(表記番地)境内と、その南の公園となっている[マップコード74 297 494*26]。
三段の曲輪が南北に並び一番高い北の曲輪に新築されたばかりの本堂が建てられ、その東に「伊佐城址」の石碑が建てられている(地図)。
下の曲輪の参道に門があり、「下館藩主・石川総管(ふさかね)の墓」がある。境内の南から五行川に降りたところに勤行川緑地がある。
昭和十年(1935年)11月26日、茨木県の史跡に指定された。
【歴史】 築城年は不明。築城者は、藤原北家山陰流の伊達朝宗(常陸入道念西)との説あり。また、天慶3年(940年)、下野押領使の藤原秀郷(俵藤太)が平将門追討の際に上館(元館・久下田城)・中館(伊佐城)・下館(下館城)の三館を築いたという伝説があり、この三館のうちの中館を伊佐氏が改修したものが伊佐城との説もある。
南北朝時代までの伊佐城については記録がなく、その詳細は不明。同城のあった常陸国伊佐郡は、平安時代末期から鎌倉時代まで、伊佐氏の領地であった。
南北朝の争乱が常陸国に及ぶと、城主の伊佐氏が同族の伊達行朝を迎え、南朝方の北畠親房が拠る小田城に呼応し、大宝城、関城など南朝方諸城と共に戦った。
北朝方高師冬軍の攻撃に長く絶えたが、興国4年(1343年)についに落城、以後廃城となった。